スタンドから

太宰治の作品を読んでみると、共感できるところがある。家庭は大事だと分かっていたのに、最後は、「家庭の幸福は諸悪の本」だと言い放って、死んだ。この本質に触れたとき、私の脳裡に浮かんだのは、高校3年生のときにスタンドから観た…

学習指導要領

数年前に、「学習指導要領」が改訂されるというので、少し調べてみたことがある。それは、教育関係の仕事をしているという事情というより、むしろ自分自身の過去と関係しているからであった。 正直、腹が立った。私には、私の子ども時代…

批評家と作家

最近、文芸評論家の作家論を読んでいる。浜崎洋介と加藤典洋が、三島由紀夫と太宰治について書いていた。なぜ私がこの両人に賛同しているのかと言えば、学者とは異なって、「評論」の手法に依拠しているからだ。 もちろん、作家の作品を…

リヴァイアサン

大学院の博士課程を単位取得退学してからも、ふらふらと研究していた頃、大学でケンカをふっかけられて、思わず手を出してしまったことがあった。今日は、その問題で受けた大学の「懲罰委員会」における会話を思い出してみたい。もしかす…

中身がない

外見は重要だと思う。教えていると、博学な先生をお見かけすることがあるが、やはり風貌が一種独特な感じだ。髪型や服装、歩き方などから、話してもいないのに、こちらも固定観念を持ってしまうことがある。 ただ、私は、個人的な経験か…

自分の内に答えはある

タイトルの通りの話をしたいと思う。小学生の頃の思い出は、年齢を重ねて、数えるほどしか覚えていないが、確実に私の記憶に残った出来事があった。それは、当時も今も、私の心に深く刻み込まれている。 たしか、小学2年だったと思う。…

誰に向けて書くのか

今回は、「誰に向けて書くのか」について考えてみたい。自分が書いた物を他人に読むことを強いることはできないが、後々まで読み継がれるような物を書きたい。その時問題になるのは、自分とは考えの異なる他者を批判するだけでは、文学の…

理論と現実

私が、研究から評論に移るにあたって、精神病院に入るという大きな「経験」をしました。それは、理屈ではなく、身体で感じるものでした。「気違い病院」で涙した経験は、人生を決するものであったと言っても、過言ではありません。 結果…

主観と客観

「本当の自分」などないという意見が出てきていることについて、以前に述べた。この意見に従えば、「自分がこうだと思っていた自分」と、「他者から見た自分」の両方とも、自分なのだと受け入れるべきだということになる。 そろばんの指…

輸入学問

私にとって、「生活経験を教養にまで高める」とは、具体的にどういうことなのか。拙著では、小林秀雄の議論を参考にしながら、おのれの内に潜む「狂気」を見つめることによって、「歴史」「自然」と出会うという結論を導きました。 もち…