主観と客観

「本当の自分」などないという意見が出てきていることについて、以前に述べた。この意見に従えば、「自分がこうだと思っていた自分」と、「他者から見た自分」の両方とも、自分なのだと受け入れるべきだということになる。

そろばんの指導に関連させながら、具体的に考えてみたい。何年も前の話になるので、若干の記憶違いもあるだろうが、ある保護者さんに、「嫌み」を言われたことがある。それは、30歳をゆうに越えていましたが、「現在のような立場」になることを、想像できなかったのですか、という主旨だったように思う。

たしかに、結婚もせず、正社員にもならず、子ども部屋にいて、「未完の大作」を思い描いていたのだから、ごもっともだ。ネットで検索してみたところ、私の立場にあてはまるキーワードは、お先真っ暗な雰囲気が漂うものばかりだった。別に自分は太宰治みたいだろと気取るわけではないのだが、要するに、「生活ができない」のである。

その保護者さんは、きちんと朝起きて、子ども面倒をみて、常識ある社会人の振る舞いもできた(?)方だったのかもしれない。既婚女性で、夫の手も借りながら、いわゆる「ワーク・ライフ・バランス」を実践しておられているようだった。就職活動の時に、「自己分析」とか「業界分析」とか、真剣に取り組んでおられた方なんだろう。

戦後日本社会では、とくに男性は、大学卒業後のキャリアを思い描き、衣食住に困らないように、妻と子を養っていくべきだという価値観が支配的だった。私は、単純に自分の気持ちに素直に、文章を書きたいと思っていただけなのだが、その学問が、稼ぐことにどうつながるのかということにまで、思い至らなかった。お金があるに越したことはないが、それ以上に、「何者か」になりたかったのだ。

だから、お金の必要に駆られて、学問の道に入る人というのは、私のようなものからすれば、少し異様な感じがする。たとえば、小林秀雄は、太宰治と違って、生活するために原稿を書くようになったというようなことを書いていたように記憶している。小林のような有名な批評家はともかく、お金や生活のために仕事をするような一般人が、学問を生活に利用するだけであって、既存の枠組みを打ち破るような新たな「創造」は期待できそうもない。

さて、話は現実に戻って、そのような「表現者」としての「本当の自分」を露骨に出してしまえば、保護者さんからの評判は、それほど良くないだろうと、その時私は判断した。他の人でもできるような仕事をしているだけで、気取るなというようなニュアンスとして受け取られかねないからである。つまり、私は、「保護者の立場だったら、こんな先生に自分の子どもを預けたくないなと思うだろうな」と、自分を「客観的」に見た上で、「教育者」を装うことに成功したのである。

「そうですよね、衣食住足りてこそ、と言いますもんね。」ただ、こう付け加えることを忘れなかった。「お仕事がお忙しいようで、次女の勉強やしつけを、ご自宅ではあまりしておられないようですね。」案の定、「幸福な家庭」というのは、休日は「レジャー」で、お決まりなのだそうだ。

そのような目的でそろばんを習う必要など、本当にあるのだろうか。私のように、生活以上の何かがあると考えるのは、世間的にはおかしいのだろうか。

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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