輸入学問

私にとって、「生活経験を教養にまで高める」とは、具体的にどういうことなのか。拙著では、小林秀雄の議論を参考にしながら、おのれの内に潜む「狂気」を見つめることによって、「歴史」「自然」と出会うという結論を導きました。

もちろん、拙著では、小林亡き後の社会状況を新しく加えてはいるものの、未熟は私は、小林のゴッホ論から多くの教えを受けました。彼の思想を理解しようとするだけで精一杯だったと言った方が、より正確かもしれません。それでも、彼の思想の真髄に触れようと考えるところまで、私はたどり着くことができました。

そもそも、難解だと言われる小林の文章を、丁寧に読み解く作業には、かなりの忍耐が求められます。個人的な意見になりますが、小林の本が売れていた時代よりも、現在は映像が重視されて、出版事情も大きく変化しています。そうした中にあって、奇妙な言い方ですが、小林の思想が私の「宿命」に向かって呼びかけてきたのです。

私が小林の議論を理解しようとした過程は、私が研究生活にピリオドを打つ過程と、ほぼ一致していました。あくまでも私の皮膚感覚ですが、日本の研究者は、おのれと向き合うことなく、まるで他人事のように対象を取り上げて、「サロン文化」にひたっているようでした。それでは、私の感覚は、単純に、勘違い野郎の「傲慢」として片付けてよいものなのか。

私は、自分の博士論文が認められることはないという「宿命」に薄々とは気付きつつも、その個人的な挫折が、大きな「歴史」の中で位置づけられる時をひたすら待ちました。その間は、「何のために書くのか」という自問自答の日々であって、「内省」を繰り返していました。

小林が批判の対象としたのは、「科学」自体ではなく、「実体」と向き合うことがない姿勢でした。実際、小林は、デカルトやフロイトを批評の対象として取り上げて、彼らの学問に取り組む姿勢を肯定的に評価しています。詳細は省きますが、彼の考える「評論」は、対象と一体にならねばならず、必然的に「文体」も学者の論文とは異なっていました。

そもそも日本は明治以後、西洋文明から多くを学び、経済的発展を成し遂げました。しかし、受け入れるだけで「創造性」の欠如した「猿まね」として揶揄されてしまうことがあるのも、厳然たる事実でしょう。私が学術界で出会ったものとは、体系的に論文を書く「能力のなさ」という“自己批判”だけではありません。とくに明治以後の日本の課題に出会っていた、とも言えるのです。

「輸入学問」にどう対処するかという問題は、西洋人には経験できないことでしょう。私は、研究活動の挫折によってはじめて、東西文明の交錯という日本の「歴史」を、自らの「生活経験」として身体的に感ずることができたのです。

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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