太宰治の作品を読んでみると、共感できるところがある。家庭は大事だと分かっていたのに、最後は、「家庭の幸福は諸悪の本」だと言い放って、死んだ。この本質に触れたとき、私の脳裡に浮かんだのは、高校3年生のときにスタンドから観た野球の試合である。
私は、中学から野球を始めて、高校1・2年のときには夏の大会に出場することができた。たいして強いチームではなかったので、レギュラーになれたと言えば、諸先輩方に失礼になるため、別に下手ではなかったと述べるにとどめる。私の能力など、たいして問題ではない。
より私自身にとって現在まで問題になっているのは、高校2年の冬には、すでに「幽霊部員化」していたことだ。そのため、ほとんど新チームでは試合に出ていない。別の記事でも触れたため、経緯についてはここでは触れない。ただ、正直に言えば、「雰囲気」が嫌だった。
さて、駅を間違えたため、遅れて球場に到着したのだが、すでに同級生たちは劣勢であった。県大会予選の開幕戦であったため、開会式後の観客は多かった。相手チームは、古豪と言われるチームで、結果は、たしか7回コールド負けであった。
たしかに、試合に出ているかつての仲間は、自分ができなかったこと、3年間練習を続けることを成し遂げた者たちだ。だから、応援すべきなのだ。自分が出場していたときに、多くの同級生は、スタンドで観ていたが、今や立場は逆転している。
しかし、消えなかった、今も消えはしない。みっともない奴らだ、情けない奴らだ。結果だけを見て、分かったような口をきくようで、すまないが、分かってたんだよ、練習していた頃に。これでは、敗者のまま、3年間終わってしまう。その通りになった。
「いかに生きるべきか」という私の魂の叫びなど、誰にも聞こえはしなかった。仮に聞こえていたとしても、さらに嫌われただけだ。卒業後、結婚式に何度か呼んでくれたが、あのスタンドからの風景が思い出されるだけだ。彼らは、まともな社会人たちだが、「表現」とは無縁な人たちだ。