大学院の博士課程を単位取得退学してからも、ふらふらと研究していた頃、大学でケンカをふっかけられて、思わず手を出してしまったことがあった。今日は、その問題で受けた大学の「懲罰委員会」における会話を思い出してみたい。もしかすると、私の妄想も入っているかもしれないが、頭の中で考えていたことだけは確かである。
まず、3名の先生方の内、2名は法律が専門であった。「正当防衛」を唱える私に対して、司会を務められていた先生は、その要件を満たしていないと論破してきた。それは、復仇とか復讐の考えだと、私を諭してきた。法律論で分が悪いのは、目に見えていた。
大学内で暴力を振るったことに関しては、私も反省していたので、処罰は受け入れますと、率直に述べて、委員会はひとまず幕を下ろした。ただ、私の記憶では、その司会の先生からすれば、いろいろと「正当防衛」の事情を説明する私の反論が聞き苦しかったのか、「ヤクザのような議論だ」とおっしゃっていた。
私は、その言葉に反応して、専門分野の影響もあるかもしれませんと述べた。余計な言葉だったかもしれないが、国際政治を専門とする私からすれば、先生方の方がヤクザに映りますとも述べた。なぜなら、私に殴られた相手は、すでに院生会の中で問題を起こしていたにもかかわらず、注意さえ受けずにいたからだった(私が事件後に知り合いから聞いた話)。
そもそも、ゼミにいた頃から、疑問を持っていたのだ。大学教員たちが、少子化を背景として「大学経営」に精を出していながら、生徒の質が悪いと嘆いている様を。とくに私立の場合、学生の授業料で、教員は食っている。自分たちが、宣伝で呼び込んで入学を許可した生徒でありながら、彼らが問題が起こしても、まるで“第三者”の裁判官のように、私を処罰してきた。
どうしてそこまで「他人行儀」でいられるのか。その無神経さにあきれた。
昔映像で見た「大学紛争」では、大学に警察が介入するかどうかも、一大事だったようだが、それは、一種の「大学自治」ができていたからであろう。彼らは、ホッブズが国家権力として呼んだところの「レヴァイアサン」なのだ。
私にとっては、大学教員は秩序維持機能を果たしていない。国際社会における国際連合のようなもので、強制力は有していないのだ。私はアメリカ帝国として、独裁者フセインを処罰して、院生会に民主主義を広げたのだ。
たしかこのようなメタファーを披瀝したあとで、司会の先生は言った。「反省はしているんだな。」