今回は、「誰に向けて書くのか」について考えてみたい。自分が書いた物を他人に読むことを強いることはできないが、後々まで読み継がれるような物を書きたい。その時問題になるのは、自分とは考えの異なる他者を批判するだけでは、文学の「永遠性」は保証されないということだ。
両親は、私が他者に危害を加えかねないと危惧して、精神科医が判断した「強制入院」を支持した。私は、病院に入れられた張本人として、「狂人」扱いされたことに激しい怒りを覚えたのだが、母の見方はまったく違っていた。最近、私が出版した書籍の出だしを見た母から、次のように言われた。
「何が気にくわないの。病院に入れたのは、ありがたいことなのよ。」精神病院の入院にかかる費用は、かなりの金額であるため、そこで治療を受けれない人もいるくらいなのに、何をあなたは文句言っているの、ということらしい。
私の本は、私を精神病院に入れた人たちの心には、ついに届かないのかもしれない。私個人の経験に基づいた書籍に対して、真面目な社会人たちは、そもそも手にとってみようとも思わないかもしれない。衣食住がしっかりできて、休日はレジャーにいそしんでいるような人たちには、どうでもよいようなことであろう。
お互いに軽蔑し合っているとしても、私が作家としてやっていくためには、そうした人たちにも響くようなものを書きたいと願う。生活だけで事足りると考える彼らを批判しなければならないが、同時に、彼らのように生活経験をして、その上で「芸術」にまで高めなければならない。
仮に相手が愛する能力に欠けているとしても、私の方から彼らを愛してみよう。それが、「承認欲求」にとらわれないための、1つの方法になるだろう。