理論と現実

私が、研究から評論に移るにあたって、精神病院に入るという大きな「経験」をしました。それは、理屈ではなく、身体で感じるものでした。「気違い病院」で涙した経験は、人生を決するものであったと言っても、過言ではありません。

結果的に、ゴッホや太宰治と出会い、彼らの「創造性」の源泉について考えることになりました。付言しておくと、私は、決して、ゴッホや太宰みたいになろうと思って、「脳病院」に進んで入ったわけではありません。絶望の中から、その辛い経験にも、何とか意味を見出そうとしたのです。

今回は、研究から評論に移る過渡期に、私が経験したことについて述べたいと思います。私は、退院後に、薬の副作用から、うつ症状が出ていたのですが、結婚しているいとこが、家庭の夕食に呼んでくれました。とはいっても、たまたま用事があって、たこ焼き食べて帰るかといった程度のやりとりでした。

これは本音ですが、私は、ほとんど友だちもいませんので、しんどい時期に話してもらえたことを、今でも感謝しています。ただ、いとこの子どもからは、「まだおるん」と言われ、いとこの夫に、幻覚症状をそれとなくほのめかしても、彼の以前の彼女が「幽霊にはまっていたけど、そういう奴はダメな奴だ」的な話をされてしまいました。

そういった言葉以上に、身体で感じたことがあります。それは、「家庭の幸福」というものでした。実家にいて両親と過ごしている私も、「家庭の幸福」の中にいたわけですが、同年代の人がどのように過ごしているのかについては、実際に、「普段の生活」に入ってみないと分からないものでした。話の流れで、たまたま呼んでもらえたのが、よかったのかもしれません。

ともあれ、他人の「家庭の幸福」の中にいた時の私は、表現しづらいのですが、「異世界」に放り込まれたかのような感覚でした。これは、率直な印象であって、もしかすると、だからこそ、太宰治にひかれたのかもしれません。その幸せな一般家庭では、食事中にテレビがついていて、子どもたちの幼稚園のことや週末の予定について夫婦が会話していました。

それまで、核抑止「理論」を専門として国家安全保障問題に取り組んでいた者からすれば、そういう一般家庭を守るというのが、国防の目的であるとはいえ、その「現実」が、あまりにも私個人の生活とかけはなれていたことに衝撃を受けました。まるで、「不思議の国のアリス」のような気分でした。

その後の一時期、私は、そうした一般家庭の生活にあこがれを抱いていました。今では、書くことが生きることだと思っていますが、書く以上は、多くの方々に読んでほしいと思っています。今思えば、あの頃の感覚は、私が「評論」に入ってゆく過渡期にしか体感できなかったものかもしれません。それを忘れずに、生活経験に基づいた「評論」を生み出したいと思います。

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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