コペル君と「友敵関係」
前回は、吉野源三郎の議論の前提に「性善説」があることを踏まえて、「理性的」な個人の倫理観が普遍的に行き渡ることを想定しているという問題点を指摘しました。今回も引き続き、この点を批判的に検討しますが、その際に「現実主義」の議論を参考にします。
さて、前回指摘したように、吉野の議論は、「理性的」な個人が存在して、そうした個人の考えが受け入れられてゆくという想定で展開していました。実際、以前に確認したように、コペル君の最終的な目標は、すべての人が友だちになることでした。たしかに、これは、理想的で、壮大な目標です(拙稿「再考・『君たちはどう生きるか』(7)」を参照ください)。
しかし、この目標が実現する過程には、様々な障害があります。なかでも最大の障害となるのは、次のことです。すなわち、仮に自分が理想を受け入れて掲げたとしても、自分と同じように他者が、壮大な理想を最終目標に据えて行動するとは限らない、ということです。
重要な事実は、吉野の小説において、この「他者」の問題が顕在化しているということです。言い換えると、「友」と「敵」の関係に関する問題です。
結論から言えば、吉野の「他者」認識は矛盾している、と言わざるをえません。というのも、コペル君の結論は「友」の重要性なのですが、上級生という共通の「敵」がいたからこそ、この結論に辿り着いたのです。つまり、吉野は、「敵」を想定せざるをえないにもかかわらず、世界中が友だちになればよいのに、と述べているのです。
学内闘争の展開
実際、コペル君の友だちが上級生に殴られた事件では、事件の処理をめぐる争いが繰り広げられていました。
まず、コペル君の友だちの親が、学校に対して、クレームを入れました。とくに北見君の父親は、自分の息子が上級生に対してとった反抗的な態度を認めつつも、暴力的な上級生に対して学校側がしかるべき処罰を下すべきだと主張して譲りませんでした(吉野源三郎『君たちはどう生きるか』マガジンハウス、2017年、280-282頁)。
ここで考えるべきことは、上級生がコペル君の友だちに暴力を振るった理由です。上級生たちの論理とは、次のようなものでした。それは、「貴様みたいな下級生がいて、学校の規律が保てるか」、という論理でした(同上、221頁)。
要するに、上級生は上級生なりに、下級生に対して威厳を示さなければならないと考えたのです。それに対して、コペル君の友だちの親の側からすれば、殴られたのに黙っていては、上級生の論理を認めたものとして受け取られてしまうので、学校側に抗議せざるをえないのです。
このように、「学校権力」に対する抵抗が生じていたのです。結局、上級生は処罰されることになるのですが、重要なことは、複数の正義が存在していたので、「友」と「敵」の関係が明確になった、ということなのです。
「現実主義」の論理
以上のような争いの図式に照らすならば、吉野源三郎のような「戦後平和主義者」は、国内で「権力闘争」が生ずることを認めている、と解釈できます。言い換えると、国内では様々な価値体系(正義・常識)が存在するので、モラルに欠けるということなのです(ただ、国内には政府が存在するので、国際社会のようにアナーキーではありません)。
ちなみに、別稿にて改めて説明しますが、「戦後平和主義」とは、「平和憲法」を基礎として、「平和国家」を目指す立場です。この立場は、戦後の対日講和・旧安保条約の交渉期には、「全面講和論」を唱えました。吉野源三郎は、雑誌『世界』の編集長として、丸山真男らとともに、論壇をリードしました。
それに対して、こうした立場を「理想主義」として批判したのが、「現実主義」です。代表的な論者が、高坂正堯です。高坂は著書において、日本人は国内では権力闘争を「当然のこと」としていながら、国際社会に対してはより「単純」なイメージを抱いていると批判します。国際社会には、行動規準と価値体系(正義・常識)はいくつもあるのだと、高坂は強調するのです(高坂正堯『国際政治――恐怖と希望』中央公論新社、1966年、序章)。
講和条約や安保改定をめぐる論争については、別稿にて改めて整理しますが、ここでは、吉野の議論に対する反論を挙げておきます。その反論とは、仮に「戦後平和主義」が、国内における「権力闘争」の存在を受け入れているのであれば、そのイメージを国際社会にも投影させているかということです。
確認しておくと、吉野と丸山は、米国を中心とする西側陣営だけでなく、中国やソ連といった東側陣営とも講和条約を結ぶべきだと論じました。この「全面講和論」は、すでに朝鮮戦争で明らかになっていた冷戦対立に照らして、果たして実現可能な目標であったのでしょうか。言い換えると、価値体系(イデオロギー)の違いが明確になる中で、「権力闘争」の側面を軽視して、果たして中国やソ連を信頼してよいのかという問題です。
「なぜ敗北したのか」という問題提起
ただ、吉野は、「信じる」ことに賭ける一方で、人間は過ちをおかすという、リアルな側面を認識していました。また、佐藤卓己が指摘するように、吉野は、戦前に近衛野砲連隊へ入隊した軍歴をもつ、軍事的教養を身につけた「戦後平和主義者」でした(佐藤卓己「戦後平和主義の戦略家・吉野源三郎」『中央公論』(2018年5月)、161頁)。
その軍事的教養とは、簡潔に言えば、「管制高地」から戦局を見切るというものです。「管制高地とは、その戦場を支配できるような戦略的高地を指す軍事用語」です。司令官は能動的に情勢判断を下さねばならないという点について、吉野は理解していたそうです(同上、162-164頁)。
以上の点は十分に考慮に入れるべきですが、佐藤は、吉野の発言を引きながら、次のように問題提起しています。すなわち、吉野は、「反戦平和運動の司令官」であったけれども、「政治的」に「敗北」したと認識していたのです(同上、164頁)。
実際、「戦後平和主義」の議論をリードした吉野ですが、講和条約期においても、安保改定期においても、その主張は世論の過半数の支持を得るには至りませんでした。
「なぜ敗北したのか」という問いについては、吉野と政治的に同じ立場にいた、丸山真男でさえ、否、丸山であるからこそ、答えることができていないのです。そこで、次回からは、現実の政治情勢と関連づけながら、吉野の議論の核心を批判的に検討していきましょう。