批判的視点
前回は、吉野源三郎の議論の前提にある「性善説」について、その論理を詳しく検討しました。人間は“善き存在”なので「信じる」ことに賭けるという議論においては、自分と同じように他者が考えると、本当に信頼してよいかどうかが問題になるのです。
この問題は、丸山真男の考察における「構図」と合致します。丸山によれば、吉野の小説は、個人的なモラルに関わる問題を、社会科学的認識にまで高めるという「構図」でした。この「構図」を言い換えると、個人の倫理観が、普遍的に妥当するのかという問題なのです。
以下では、吉野の議論がこの問題を抱えていることについて、小説の中から、2つの根拠を確認してみましょう。
主観と客観
第1の根拠は、主観と客観です。簡潔に言えば、吉野(おじさん)の議論は、主観的だけでなく、客観的にも自分の行動を見ることができる人物を想定しています。
一方で、吉野は、感情から出発せよ、と論じています。「肝心なことは、いつでも自分が本当に感じたことや、真実心を動かされたことから出発して、その意味を考えてゆくこと」なのです(吉野源三郎『君たちはどう生きるか』マガジンハウス、2017年、60頁)。要するに、「いつでも、君の胸からわき出てくるいきいきとした感情に貫かれていなくてはいけない」のです(同上、63頁)。
吉野がこのように論じる背景には、コペル君が感動した事件があります。豆腐屋の浦川君が同級生のいじめに遭っているところを、北見君がかばったという事件です。
他方で、自分中心を見直すことの重要性についても、吉野は指摘しています。
人間は、「いつでも自分を中心として、ものを見たり考えたりするという性質をもっている」。「損得にかかわること」においては、とくにそうです(以上、同上、29、31頁)。しかし、それでは、「世の中の本当のことも、ついに知ることができないでしまう」。「自分を広い広い世の中の一分子だ」という考えを持つことが、重要なのです(以上、同上、32頁)。
同様に、吉野は、感情だけでは不十分だということについて、ニュートンの万有引力の例を挙げながら強調しています。正確に言えば、「思いつきからはじまって、非常な苦心と努力とによって、実際にそれを確かめたというところに」、ニュートンの偉大さがあるのです(同上、88-89頁)。
現実と理想
次の根拠になります。吉野は、「本当に人間らしい関係」について論じています。それは、「報酬を欲しがりはしない」ということです。吉野は、「人間が人間同志、お互いに、好意をつくし、それを喜びとしているほど美しい」と、理想論を展開しています(以上、同上、106頁)。
言い換えると、自分だけの利益を考える現実的な人物が、批判の対象になっているのです。
具体的に、吉野は、ナポレオンの例を出しています。フランスのナポレオンは、ヨーロッパ諸国が封建制度を守っていたのに対して、「少なくとも彼が皇帝になるまでは、封建制度を打ち倒して新しい自由な世の中を作ろうと努力していたフランスを守るために、たしかに役に立っていた」(同上、198-199頁)。
ところが、「やがて皇帝になると共に、ようやく権力のために権力をふるうようになって」きました(同上、201頁)。たとえば、イギリスとの通商の禁止や、ロシア遠征です。
以上の議論を提起した上で、吉野は次のように述べます。すなわち、「本当に尊敬ができるのは、人類の進歩に役立った人だけだ」、と(同上、203頁)。
まとめ
このように、吉野の議論は、次のような「理性的」な個人を想定しています。第1に、主観的のみならず、客観的にも物事を見ることができること、です。第2に、自分の利益に拘泥することなく、人類の進歩に貢献することができること、です。
しかし、こうした個人の倫理観が、容易に、万人に通用する議論となり得るのでしょうか。すなわち、他者が自分本位のことをする結果、理想を追う自分だけが損をするのではないかという問題が残るのです。