「信じる」ということ
前回は、吉野源三郎の小説の論理を批判的に検討しました。簡潔に言えば、謝罪の手紙によって友だちと和解できたわけではなかったという、構成に関する問題点を指摘しました。今回は、吉野の議論の前提にある「性善説」について、その論理をさらに掘り下げて検討してみましょう。
さて、改めて、コペル君の「主体性」の表れとも言える手紙について、その“構造”を確認しておきましょう。それは、勇気がなくて友だちのもとに駆け寄ることができなかったけれども、友情をどうでもよいと思ったことはない、という“構造”でした。つまり、「謝罪」と「友情」(信じていること)が、手紙で友だちに伝えたかった内容でした(拙稿「再考・『君たちはどう生きるか』(5)」を参照ください)。
だとすると、手紙に「謝罪」が入るという“構造”に従えば、小説の結論では、友だちがコペル君を「許す」のかということが焦点になるはずです。
ところが、コペル君の「主体性」の表れとも言える手紙が友だちの判断に与えた影響は、小さかったとされています。というのも、そもそも友だちは、悪いことをしたというコペル君の認識とは違って、彼の罪をそれほど気にしていなかったからです。
穿った見方をすれば、前回の「反事実」で検討したように、謝罪の手紙がなくてもコペル君は友だちと和解することができたということになってしまいます。
この点について、吉野が小説の構成を練る際に悩んでいたであろうことは、想像に難くありません。というのも、コペル君が己の「罪」を認めた手紙の意義を強調すれば強調するほど、友だちがコペル君を「許す」前に、彼を憎んでいた点を強調せざるをえなくなるからです。しかし、友だちがコペル君を「信じていた」ということなのであれば、このディレンマとは無縁なのです。
「性善説」の位置づけ
要するに、この小説においては、「信じる」ということと、「許す」ということが、厳密に区別されるべきなのです。
実際、コペル君に謝罪の手紙を書くように勧めた、おじさんの助言も、基本的には、この区別に従っています(吉野源三郎『君たちはどう生きるか』マガジンハウス、2017年、248-250頁)。すなわち、友だちが許してくれるかどうかは気にすることなく、前述した内容の手紙を出すべきだ、という論理なのです(ただ、おじさんも、「許しを乞いたまえ」と述べていますが)。
いずれにしても、「許してほしい」ではなく「信じてほしい」というコペル君の訴えに対して、友だちが「信じてくれた」という結論で、吉野は応じているのです。この意味において、手紙の訴えが認められたので、手紙の意義を確認することができるという解釈も可能です。
しかし、前回確認したように、吉野によれば、コペル君が友だちと再び仲良くなったのは、「たしかに、コペル君のあの手紙のおかげでしたが、もともと三人の方では、コペル君が考えたほど深くは心にとめていなかったのです」(同上、289頁)。この論理に従えば、友だちが「信じていた」という設定によって、主体的に出した手紙の意義が損なわれてしまっているという批判の方が、手紙の意義を肯定する解釈よりも妥当なのではないでしょうか。
それでは、小説の構成において、なぜこのような問題が生じてしまったのでしょうか。その理由は、人間は本来“善き存在”であるので信じることに賭けるという、吉野の信念があるからです。
こうした吉野の信念に照らすならば、手紙があったから友だちが「許してくれた」のではなく、友だちが「信じてくれていた」という設定を抜きにしては、コペル君が「友情」という「真実」を引き出すことはできなかった、と言えます。
構造的把握の試み
最後に、今回の記事をまとめましょう。手紙の“構造”は、次のような「両面性」でした。それは、自分の罪を認めて謝罪するけれども、友情を大事だと考え続けていることを信じてほしい、という“構造”です。
手紙とその“構造”は、「自分の行動を自分で決定する力を持つ」ことから生まれました。そして、この「自己決定」の力は、「性善説」が“前提”になっているのです(拙稿「再考・『君たちはどう生きるか』(6)」を参照ください)。
だとすると、吉野の議論においてもっとも肝心なことは、他者をどう見るかということです。言い換えると、自分と同じように他者も考えていると、本当に信じてよいのかという問題です。次回からは、この問題について検討していきましょう。