他者との付き合い方

太宰治と向き合うことで、私の執筆は終わることができるとさえ考えている。それは、私自身が感じているだけで、別に誰からも期待されてはいない。

お前の文章なんてわからないと、よく言われてきたが、別にそれで結構だと割り切っている。

断っておくと、高名な思想家と比べてようとしているのではない。思想家は、そもそも分かりにくいのだなどと、言い訳をしたいわけではない。

己が書いているものを崇高だと考える、自己満足学者をさんざん見てきたので、「反面教師」として自戒しないといけない。

要するに、別に分かってもらえなくても結構だというスタンスなので、太宰が言っていたように、別に芸術は強制するようなものでもないのだ。

ただ、自己満足にひたるだけではなく、せめて同類の方々には、おのれの拙い作品が「無用の用」にでもなるようにしたいとは考えている。

有名になるとか、お金とかの問題が、最優先になるはずがないのだ。このような奴からすれば、昔よりも昨今の風潮が良くなったとは、到底言い難いのだ。

作品でおのれの見解を述べているので、日々の生活や仕事で、こんこんと説くことはない。その意味では、作家とは、不特定多数者を対象とする、「教育者」であるように思う。

太宰は、生前幸せであったと決めつけることは必ずしもできないかもしれないが、死後に生前よりも多くの読者を獲得することに成功した。彼が命を賭して訴えようとしたことが現代にも通ずるというのは、言い過ぎではないだろう。

「分かりやすく説明しなさいよ」と、ある種の教育者に文句をたれる消費者は、何を目的に学んでいるのだろうか。

言い返すようで、口には出したくないのだが、私からすれば、学んだことを、娯楽や利益にしか還元しようとしない輩の方が、たいして「意味のない」ことをしているようにように思えてくる。

いや、むしろ有害なのではないか。他者よりも得をしたいと考えて、日本社会を悪くする存在なのではないか。私のような「社会不適合者」よりも。

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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