最初は研究者的な論文に、ある種のあこがれを抱いていたのだろう。
ああいう書き方が、すごく格好よく見えたときがあった。
しかし、いわゆる「客観性」とは何かについて、深く考えてみると、正直幻滅するようになった。
自分は客観的な手法を取っていると考えている人ほど、相手を理解しようとしなかったのだ。
しかし、いざ小説やフィクションに、この歳になってから移るのかと言えば、簡単なものではないし、どうにも柄ではないような気がしている。
ただ、私がある小説家が気になって理解しようと思ったのは、私と経験が似ていて、当然「共感」できる部分があったからだ。
問題は、その「共感」をどのようにすれば表現することができるだろうか、ということだ。
わざわざ己の作品の創作の動機を論ずるなど、その作家からすれば、愚の骨頂なのかもしれないが、頭を整理するために、ここで考えてみたい。
客観的に対象を眺めて、冷静に「分析」することでは、十分に表現することなど、到底できないのだ。
その作家は、己の過去を見つめて、作品のなかで、昔の恩人に挨拶に行く話を書いている。実は、これから私は、その作品を読むのだが。
私も、かつてお世話になった人たちに、挨拶に行きたいと思ったことがある。
しかし、本当に考えていることなど、彼らと実際に出会ったときに、言葉で表現することなどできるだろうか。
月並みな表現で恐縮だが、あふれだす感情におされて、おそらく、話すことなどできないのではないか。
その作家は、実際に帰郷して、会話することができたようだが、私はありそうもない。
いや、行って話したいと思ったことは、あるのだ。
もしかすると
実際にはできないことを、今度の作品では書けるのではないか。
それは、証拠に基づいていないということで、無責任な作品ということになるのだろうか。