昔、日本史が好きだったので、大学受験の時に頑張った記憶がある。
歴史の流れが分かると、なるほどと思ったのと、歴史上の人物の動機や政権の興亡は、興味深かった。
大学院の研究では、欧米で主流の社会科学はなじめず、歴史的アプローチにひかれた。
とはいえ、論文である限り、最低限の論理性は求められるので、因果関係の特定にはかなり慎重になった。博士論文が認められなかったのは、ついには、そうした学術的性質になじめなかったということなのだろう。
別に開き直るわけではないのだが、この経験があったからこそ、あまりにも論理性や科学性に戦後は偏っているという、小林秀雄の指摘は、その通りのような気がした。
もちろん、小林は、もっと崇高な観点から、日本や世界の歴史とつながっていた。モーツアルト、ゴッホ、本居宣長、福澤諭吉など、彼の評論を目にしたら、それは明確である。
卑俗と言われる、太宰治でさえ、西鶴をはじめとする日本の古典を読み漁っているのである。
だとすれば、私は本当に歴史や伝統とつながっていたのであろうか?
たしかに、冷戦時代について、核抑止を中心に調べてみた。
しかし、日常の経験はと言えば、小・中・高校と、ラジオやテレビでよく聴いたのは、英語が混ざっている歌詞である。
太宰の小説には、祖母や乳母から聞いた昔話や、芝居や能を見たというような話がよく出てくる。
日常生活において、私は完全に、「伝統」とは切り離されていたと認めざるをえない。
この課題に、今取り組んでいる。私には、「自信」が必要だから。