太宰治の「人間失格」の最後に、主人公がたどりついた境地とは何だったのだろうか。
自分の人生を告白するというのは、単なる自意識過剰なのではない。いつ死んでもおかしくないので、こんな生き物も存在したのだということを、遺書代わりに残しておきたかったのだろう。
文面や資料から判断すると、太宰は、自分の作品を誰も理解していないと幻滅して、あるいはおのれの生活に失望して、自ら命を絶ったようだ。
太宰の「死」の原因を考察することが、文学的にも大きな意味を有することは疑い得ない。
とはいえ、現実の太宰と、小説に出てくる太宰の分身は、本当に一致するのか。どこまでがフィクションなのか。
一つの解釈を、我々に与えることを、簡単には許さない。
たとえば、ある研究者が、客観的に、太宰は他者からの「承認」に囚われすぎたのだと結論づけていても、なぜかその否定的な意味さえも、不思議と「魅力」であるかのように感じてしまう。
「弱さ」「自己憐憫」
おのれが内に秘めている罪深さは、あなたたち「人間」とは違うのだ。
しかし、それはどのようにすれば、“証明”できるのだろうか。
命をかけた者の訴えを、ただ「弱い」と切り捨てることは、私にはできない。
太宰を代弁するわけではないのだが、どうして、世間で取り上げられるものというのは、こんなにもつまらないのだろう。
地位や名誉を築き上げた者が注目されること自体に、疑問を呈しているわけではない。
自分が注目されていないことをひがむ気持ちも、ほとんどない。
ただ、関心が湧いてこないのだ。組織や会社の規模が大きいのに、人間の小ささしか見えてこない。
繰り返し言うが、私のスケールが大きいということを言っているのではない。