本当に理解し合える人など、いないのではないか。両親でさえ、私を精神病院に入れたのだ。
ただ、一面的に捉えることもまた、できないのだ。
長野市の事件では、市議会議員の息子は、どうやら幻聴がきこえていたようだが、両親が関係が壊れることを恐れて、病院に入れなかったようだ。
日々の生活においても、私は、「他の人のやっていること」に、どうしてもあまり関心が湧かなかった。
瓶の中に蝋を入れている創作や、部屋の飾り付け、など。
日々の小さな出来事に、喜びを感じることができているならば、生きていることに感謝できているということなのだろう。
しばしば多くの読者をひきつけている作品が、賞を獲得したり、大々的にメディアに取り上げられている。
それらの作品が、生きることの意味や、新しいものの見方を、読者に提供して、共感を集めているということのは、紛れもない事実だ。
しかし、それらを見ても、まったく興味が湧かない。全然、自分の経験と違うからだ。
もっとも、今時のベストセラー作家たちは、私に読まれなかろうが、痛くもかゆくもない。
それでも、自分が日本の「伝統」「歴史」に連なっているという意識は、私は決して忘れてはいない。
それが、具体的に何を意味するのかについては、ここでは述べない。
「分かりやすい説明をしろ」と言われるのは、我慢してお金を稼いでいる時だけで、もう十分だからだ。