病気と言われてしまえばそれまでだったように思うが、妄想と幻聴におそわれたときがあった。
医学的にとか、客観的にという答えでは、到底納得できるものではなかったので、個人的には、文芸評論や小説などに説明を求めていくようになった。
戦地に駆り出されることがなかった太宰は、どうやら、同年代の人たちが戦地で散っていったことに対して、うしろめたさを感じていたようだ。
「死」が目前に迫っていた人に、「知識」や「理論」など、魅力的に映るだろうか。自殺未遂を経験した太宰が、マルクス運動を捨てたというのも、個人的には、たいへんよく理解できるのだ。
その「うしろめたさ」は、もしかしたら、勝手に太宰の側がつくりだしていたものなのだろうか。私の妄想は、勝手に私が生み出していたものなのだろうか。
死者の声をはっきりと聞くことができない以上、「生」の側から「死」を身勝手に語ることは戒めねばならない。
だとすれば、死ぬ覚悟で書くしかないのだろう。死ぬ覚悟で書いている文章をやたら批判してくる連中がいたら、死にたいくらいだったのだろう。
彼が随筆で書いていたのは、本音だったに違いない。