文学史には詳しくない。しかし、太宰治は、古典をひもとき、物語を創作したし、小林秀雄も、西洋文明に出会った日本を論じた。
日本人として生まれた以上、おのれを振り返りながら、日本とは何かについて考えたい。その1つの方法として、「自画像」があるのだと思う。どこまで自分を描くことができるか。
自分を自分で描くのだから、客観的に描くことが不可能であることについては、もう触れないことにする。問題は、創作か、批評か、ということになる。
文章読解の経験を活かすには、いきなり物語を書くよりも、小林秀雄の「批評」の方が適しているように思えた。その成果は、処女作として、世に問うことができた。
小林は、「死」を自分のものとするように努め、戦後を生き抜いた。彼の近代批判の鋭さは、言うまでもないが、ただ、彼の取り上げる対象が、私には崇高すぎたように思う。
誰しもが内に秘めているのかもしれないが、「死」への衝動というものがある。現代にまで続く太宰への共感は、彼の生き様とも関連しているのかもしれない。
しかし、私も太宰のように傑作を生みたいという大望はあるが、かといって、死ぬ気はない。なんとも情けない話だ。結局、私は太宰ではないのだ。
小林が言うようにおのれを見つめたとき、おのれが犯した「罪」があらわれてくる。その感覚は、「批評」ではなく「創作」に近いのではないかと思えてくる。