昔、ドイツの政治学者マックス・ウェーバーの本を、かなり熱心に読んだことがある。私の理解は、次のようなものだったと記憶している。
政治の本質が、利益の対立と調整にあることを踏まえて、対象として取り上げた論文の前提を、抽出してから批判するという方法論を唱えていた。
その考えからすると、どの対象を取り上げるのかという時点ですでに、その人の関心をあらわしている。研究者が好きな表現を用いると、「研究の射程」ということになる。
困ったことに、たいへんお世話になった、人柄のよい大学教員がいるのだが、私のアプローチとは、かなり異なっていた。ザ・社会科学というお方で、従属変数と独立変数といった表現で、原因を検討してゆく、機械的な書き方をしていた。
方法論の授業をするので、聴講しないかと、そのお方にお誘いを受けたのだが、いやはや、研究員にもなって、修士課程の学生と一緒に授業など受けるものか。
ともあれ、話を戻すと、結局、そのお方は、私に次のように言った。先行研究を批判的に検討する際に、取り上げている論文が「射程外」としているものについては触れるべきではない、と。
研究の射程にとらえていない、とらえようとしていないのだから、「射程外」のことについて、書いていないと批判するのは的外れだということらしい。
いや、そうではないのだ。なぜ外したんですか?そんな重要な論点を。そこにその人の取り組み方があらわれている。
重要な論点を別の角度から照らすといった、頭の賢い方法で、業績を稼いでいる人が多い。しかし、その問題に取り組む理由や、アプローチを採用した背景などが、きわめて「軽薄」であるようにしか思えないのだ。
すでにいろいろ出ているから、周辺部分をやるしかなかったんじゃないの、と聞いてみたくなる。あの人たちは、なぜ研究をしていたのだろう。
あなた方の切迫した「問い」が、私には見えてこなかった。だから、「レポート論文」に見えたんだ。