笑いにかえる

太宰治文学には、ユーモアがあると書かれていた。私の場合は、マジメに考えすぎると疲れてくるので、どうしてもふざけないとやってられなくなる。

近代文学については、ほとんど無知だが、「自意識」というのが課題になっているらしいくらいの知識しかない。近代では、「自分とは何者か」という個の意識が強くなった。

そのため、「自意識」をいかにして自然のなかに溶け込ませるかが、太宰の課題になっていたようだ。

残念ながら、私の場合は、そんなマジメな話ではない。「自意識」を消すというよりかは、外の職場では、存在自体が消えている。つまり、私ではなくとも、任務は他の講師でつとまるのだ。

高校野球の試合で打席に立っていたとき、相手チームの監督から、キャッチャーのサインを盗み見るなと注意されたことがある。

私は、融通が利かず、しかも大振りなので、上位打線には置かれていなかった。それは、賢明な監督の判断であったと思う。というのも、その「単細胞」選手は、相手バッテリーとの駆け引きに神経を集中させていたので、ランナーが出て自軍の監督からサインが出たら、頭がパニックになっていたからだ。

私は、審判から注意を受けて(もちろん相手のサインなど見ていない)、シメタと思って、自軍の監督のサインも見ないようにした。ベンチで監督に怒られたが、審判からサインを見ないように言われたので、と受け流した。

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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