最近、父がタバコをやめている。肺に異常が見つかったらしい。娘にやめるように言われても、兄貴が肺を摘出しても、やめなかったあの父が、だ。
「外的要因」によって、断念させられた経験というのは、誰しもが有していることなのだろう。あとから振り返ると、なるべくしてそうなっているのだが、当時は悲しかったものだ。
他方で、自分からアホらしくなって、やめたこともあった。野球や研究だ。それらについては、最近必死に説明しているところなのだが、結局のところ、私の決断というのは、「論理」的なものではなく、「感覚」的なものであった。
もちろん、世間様からすれば、高校3年間野球をして、大学で教職に就いている方が、「偉い」わけだ。最後の夏の懸命プレーに感動、多くの人のためになる研究をする模範的人物。
彼らが、私にはできないことをしているにせよ、私は、吠えねばならないのだ。お前のチームや教員たちだけなのではないかという批判もあるかもしれない。だから、私の「感性」が「正しい」なんてことは、口が裂けても言えない。
試合に負けて、本当に悔しいと思っていたのか。自分が負けたとは感じなかったのか。
あの文章は、日本の将来を、自分の行く末を案ずるように、本気で書いた文章なのか。
私には、社会どころか、チームを変える力さえなかった。厳然たる「現実」を前にして、私は、言葉にできない、自分の無力さを、痛いほど思い知らされた。
俺は間違っていた。それでも、この「絶望」から、残りの人生を悪あがきするしかない。その時、敵は、相手や味方チームではなく、私の論文を批判した教員でも、もはやない。