過去の客観化

個人の記憶には限界がある。過去の客観化は、可能なのだろうか。

現代のデジタル化時代においては、動画や写真が、SNSで瞬時に世界をかけめぐる。犯罪捜査も、監視カメラやDNA検査などを用いながら、科学的に行われている。

私の子どもの頃は、まだ「使い捨てカメラ」の時代であった。また、そもそも、日記などつけないタチであった。

現代の幼児は、絶えず親にスマホをかざされてはいるが、デジタル化を推し進めると、将来、彼らの過去も客観的に検証することができるようになるのだろうか。

特定の個人を、ずっと動画や写真で記録し続けることはできない。また、感情や心理は、時が経つと、不思議なことに、忘れたり、相対化されたりする。つまり、過去をそっくりそのまま再現することは、今後もなかなか難しそうなのだ。

所詮、都合良く歴史をつくりかえることに成功したとしても、関係者の反感を買うだけだ。彼らは、私の本を買ってはくれまい。

ただ、誰しもが、いつの日か、おのれを振り返る。私は、今すぐ死ぬわけではないとしても、精神病院で「絶望」を経験したことによって、「実存の手ごたえ」を確かに感じることができた。

とはいえ、弁解がましいのだが、おのれの罪深さは、その「絶望」の前にすでに感じていたのだ。だとすれば、存在自体が罪なのだろうか。太宰的に言えば、生まれてきてすみません、だ。

だから、「自己肯定」だけの作品を生んで済む話ではないのだ。おのれの歴史をどう描くかということでしか、「存在の意味」を証明する術はないのだ。

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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