余生

死の淵を経験した者がよく口にしているが、私も余生だと思って生きている。

ただ、太宰治との違いは、親の墓だと思う。太宰は、戦中生家に疎開していたが、戦後再び上京した。その時には、作品「冬の花火」のように、親・生家との別れを覚悟していたように思う。

生家の跡を継ぐ必要はなかったが、妻子を遺して去っていった太宰。それに対して、妻子はいないが、私は、生家にいて、親の墓を用意して、弔いたい。私とは違って、両親は、常識人だからだ。

私が、本当の意味で独り身であれば、世捨て人のように、草庵で一人文章を書いていればよく、死体は野ざらしでもいいのに。

そのように考えている私からすれば、こじゃれた墓を自分でつくって、親族に見せる人など、意味不明だとしか思えない。

「80・50問題」を踏まえると、少しでも、外で稼いでおくべきなのだろう。親の年金に依存していれば、親が亡くなった後に、お金に困ることは明白だからだ。完全にひきこもるわけにはいかない。

私がなすべきことは、「就活」をして、お金を本格的に稼ぐことではない。むしろ「終活」なのだ。いつ死んでもよいように、身辺の整理をしよう。すでにあるもので、何とか済ましてゆこう。

「死」が眼前に見えているのに、必要以上に、自分を苦しめながら、お金を稼ぐ気には、どうしてもならないのだ。

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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