ついさっき、かばんの中から見つけた、4日前のお茶を飲んで、お腹が少し痛い。
今日は、1ヶ月がかりで、畑のある仕事をやり終えた。それは、風呂桶を、柿の木の根っこからはがすという作業だ。
難敵であった。敵ながらあっぱれである。
柿の木には、削ってしまい、申し訳ない気持ちだが、また新たに成長するような環境を整えてあげたい。20年から30年かけて、フェンスや風呂桶にはりついた。今後は、土などをかけて、もっと栄養をあげたい。
おもしろいことに、1ヶ月間、その作業中に、過去のいろいろな思い出が出てきた。もちろん、それが本当かどうかなど、客観的に証明することはできない。
記録などの調査を通じて、事実関係の整理は行っているが、細部までは知る由もない。自分に都合良く、過去をつくりかえることなど、しないつもりだ。
よく考えると、「過去の客観的証明」にこだわりすぎていたようだ。学術研究と個人の両方において。それが、「狂人」扱いされた根本原因だろう。あの過去への執着は、「目に見えぬ世界」への憧れであった。
今は、ただ聞き入っている。何度も同じ情景が目に浮かんでくるが、幸も不幸もない。
追伸
精神病院に強制入院させられたとき、担当の医師が、このように言っていた。「君の歳では、幻聴が中心で、幻覚は比較的少ないはずだ」。
当時、違和感があったのだが、やはり今でも声だけでなく、情景も浮かんでくるのだ。