意味と感覚

分かりやすく説明するということは、どういうことなんだろう。伝えるためには、内容だけではなく、伝え方にも工夫をこらさないといけない。

分からない、分からないと言う人の中には、地位や権威を盾にする人もいる。文章表現を磨くと同時に、相手は何が分からないと言っているのかを知ることも重要だ。相手の知識が不足している場合があるからだ。

また、感覚的に分かることを、いちいち言葉にするというのは、何かと面倒だ。「そろばんをする意味って何ですかね」と聞いてくる保護者に限って、実際にそろばんを弾いた経験がないことが多いのだ。

経験するからこそ、感覚が磨かれるのだ。そして、それが学問や芸術にまで高まって、意味が分かるということになる。

それでは、どうしておもしろいと感じるのだろう?問題を解くことができたときの喜びは、言い表しようがない。さらに、人生経験を積むと、与えられた問題では物足りなくなってくる。

「頭でっかち」ではいけない。学問はおもしろくない、そろばんはおもしろくない、どこがおもしろいのだろう、分からないから聞いてるのだろうか?だとすると、保護者は子どもに学校に行けと言いながら、実はなぜ行かないといけないのかについては、分かりやすく説明できないのだろうか?

分からない奴は、もうそれでいいんじゃなかろうか、としか思わなくなってきた。

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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