「友情」という結論
前回は、吉野源三郎の議論の“前提”には、「性善説」があることを証明しました。たしかに、人間が元来“善き存在”であることの裏側には、過ちを犯して悲しむというリアルな人間像があります。それでも、「性善説」は、「自分の行動を自分で決定する力を持つ」からこそ「絶望」から「真実」を見い出しうるという議論の“前提”として、看過することができない点です。
いずれにしても、この“前提”との関連で言えば、人間は元来“善き存在”であるので「人間を信じる」ことに賭けるという点が、同書の根幹にあるのです。実際、コペル君が出した謝罪の手紙の最後に、「信じてくれたら、僕、どんなにうれしいでしょう」と記されています(吉野源三郎『君たちはどう生きるか』マガジンハウス、2017年、252頁)。今回は、この問題点を明確にするべく、「友だちがコペル君を許した理由」を検討します。
さて、友だちが許したシーンを取り上げる前に、結論から言えば、コペル君は、次のような結論を導き出して、ノートに書きました。それは、壮大な夢でした。
「僕は、すべての人がおたがいによい友だちであるような、そういう世の中が来なければいけないと思います。人類は今まで進歩してきたのですから、きっと今にそういう世の中に行きつくだろうと思います。
そして僕は、それに役立つような人間になりたいと思います」(同上、317頁)。
この内容を書いた時、「よい友だちをもっている幸福が、コペル君の胸によみがえってきました」(同上)。要するに、彼は「友情」のかけがえのなさを再確認したのです。
ちなみに、この結論に至る前にコペル君は、「内省」の重要性にも気づきました。「コペル君は、やっと最近になって、自分を振りかえって見るということがどんなことか、それを少しずつ知りはじめたのです」(同上、290頁)。つまり、コペル君は、「絶望」「内省」「真実」という過程を経て、彼の父親が望んでいたような「立派な人間」(同上、315頁)に近づいてきたのです。
「反事実」の意義
より詳しく、時系列で、物語の流れを整理してみましょう。①コペル君が謝罪の手紙を出す、次に、②友だちが許す、最後に、③前述した結論を導く、という流れになっています。
たしかに、コペル君は、手紙を出した時点ですでに、友だちがどうでもよいと考えたことはなかったという結論に至っていました。そのため、次のように考えることも不可能ではありません。すなわち、おじさんがコペル君に述べていたように、「友だちが許してくれるかどうか」は、手紙を出すにあたって考えるべきことではなく、また、最終的な結論に影響を与えるものではなかった、と。
それでも、コペル君が前述した結論を最終的に確認したのは、友だちが許してくれた後でした。そのため、コペル君の結論は、ノートに書いている時の「幸福」感に見られるように、幸いなことに友人たちが彼の罪を許してくれた、という点を抜きにしては導くことができないのです。
だからこそ、戦後平和主義者(吉野)は「相手の善意に期待しすぎている」と、現実主義者が批判するのでしょう(ただ、吉野からすれば、手紙を出すという「主体性」は、相手の善意や許しに依存していないということになります)。それはさておき、より本質的な批判的検討を行うために、「反事実」を用いてみましょう。
まず、コペル君に裏切られたことを、仮に友人たちが許してくれなかったとしても、果たしてコペル君は同じ結論を導くことができたのでしょうか。前述した時系列を参考にすると、さらに踏み込んだ、適切な「反事実」が、次の問いです。それは、「コペル君が手紙を出さなくても、果たして友だちは彼を許したか」、という問いです。
どうしてこの問いが重要なのかと言えば、②と③になる上で、①が決定的な要因となったのかということを明らかにしてくれるからです。「反事実」について、ここでは詳しく説明しませんが、簡潔に言えば、「因果関係」を推論する際に用いられる、最も有効な手段だと考えられています(拙稿「自己紹介とブログの狙い」を参照ください)。
筆者の狙いは、コペル君が主体的に出した手紙の意義を問うことです。つまり、手紙を出すという主体的な行為があったからこそ、コペル君は許してもらえて、「真実」を引き寄せることができたのでしょうか。
以前に考察しましたが、丸山真男が論じたように、吉野源三郎の議論が「主体性」を軸とする構図であることを踏まえる時、以上の問いの意義は明確になります。
友だちが許した理由とは
それでは、友だちがコペル君を許した理由について検討してみましょう。吉野の論理は、次の通りです。コペル君が友だちと再び仲良くなったのは、「たしかに、コペル君のあの手紙のおかげでしたが、もともと三人の方では、コペル君が考えたほど深くは心にとめていなかったのです」(同上、289頁)。
たとえば、友だちの水谷君に言わせると、「あんなに気にされると、僕たち、こまっちまう」。北見君は少しわだかまりがあったことをうかがわせるものの、コペル君に次のように述べました。すなわち、「僕たち、もう、なんとも思ってやしないよ」、と(以上、同上、279頁)。
ちなみに、水谷君の姉であるかつ子さんは、より率直です。かつ子さんによれば、コペル君が約束を破ったと聞いて、「最初はかなりふんがい〔憤慨――中西〕いたしました」。しかし、コペル君の手紙を読んで、「ずいぶん感動」したというのです(以上、同上、284頁)。
たしかに、改めて考えてみると、吉野の考えによれば、人間は過ちを犯しますが、元来は“善き存在”です。そのため、友だちの視点に立つ時、吉野の考えに従えば、最終的にコペル君を許す過程で、彼を疑ったとしても、とくに問題にすることはないのかもしれません。
それでも、人間が元来“善き存在”であるから信じることに賭けるという吉野の信念に鑑みて、指摘しておかねばならない点があります。それは、「人間を信じる」という信念が、手紙の意義を軽んじかねないという問題です。友だちがさほど気にしていなかったのであれば、コペル君が手紙を出して自分から誤りを認めたという「主体性」は、友だちの「許し」や「友情」という結論に対して、たいした影響を持ちえなかったということになります。
したがって、吉野の論理は、次のように解釈されかねません。すなわち、手紙がなくとも、友だちは許してくれる(心にとめていない)ので、同じ結論に辿り着くことも可能であった、と。この「反事実」の答えでは、固い「友情」に基づいて「人間を信じる」という信念に、「主体性」はうずもれてしまうのです。
こうした“解釈”以上に、吉野はむしろコペル君が「内省」するようになったことを評価しているようですが(同上、289頁)、今回の検討を通じて、検証しなければならない点が明らかになりました。それは、吉野が、手紙という形で体現された「主体性」を犠牲にしてまで、「人間を信じる」という点を重視しすぎてはいないか、という点です。