野球の話は、実は、あまりしたくない。私が、高校の時に最後まで、やり遂げなかったからだ。過去への不平が、未来を切り拓くわけがない。現在の惨めな自分を肯定するために、過去をつくりかえたいわけではない。
太宰治が、否定的な意味で、「六大学リーグ戦」という言葉を使っていたことについて、機会があれば調べてみたいと思っている。勝手な推察は、文豪に失礼だから、本当はしてはならないのだろうが、太宰が、野球を「芸術」とは認めていなかったのは、明白だろう。
たしかに、芸術的なヒットとは言うし、技術的・精神的には、スポーツ選手に目を見張るものがあるのだろう。WBCが盛り上がっている最中なので、批判したところで、体格的、金銭的に、単なる「敗北者」のやっかみにしか聞こえないだろうが、高校の時に感じたような興奮を、今野球に感じることはない。
別に、同意を求めているわけではない。私の場合は、そうだというだけの話なのだ。確実に、野球への思いは変わったのだ。それは、受け入れよう。受け止めよう。証明することができる「事実」だ。
しかし、どう自分は変わったのだろうか?何が変わったのだろうか?
詳しくは、今後述べていくが、結論はこうだ。野球への思いが変わっても、白昼夢のようにあらわれてくるのは、私の内面で変わらないものがあるということだった。