「運命」とは何か

「運命」と出会うとは何か。

そんなキラキラしたものではない。運命の人と出会って、結婚式でお祝儀を出してもらって、幸せアピールするといった類のものではない。

小林秀雄が言っていたように、それはもっと「暗い」ものなんだ。

暗いと言っても、お金持ちの家に生まれたかったとか、身長が高くなりたかったとか、学歴があった方がよかったとか、そんなものは「運命」ではない。

私には子どもがいないが、子どもがいなくとも、おのれを知ることに近づいている。「小市民」であれば、自分と風貌、頭のレベルが似た分身があらわれてようやく、おのれを知る人が多いようだ。

自分の子どもが失敗したとき、同じように悲しみ、やはり自分の母親も父親も、同じように悩んだんじゃないかと振り返る。

私は「日本」になってみたんだ。何をバカなことを言ってるんだと思われるかもしれない。

私はかつて、「日本の防衛問題」を考えたが、それは、お偉い学者のように、客観的に分析していたのではない。その時は、具体的に言えなかったが、すべての「信頼」をはがされた経験をした今では、次のように言える。

日本は、事実上、米国の核ミサイルの抑止力で守られている。中国・ロシア・北朝鮮は、友好的ではない。それらの国々は、核ミサイルを保有している。だとすれば、米国の核の傘がなければ、非友好国の攻撃に対して丸裸になってしまう。

米国に守られることに対して、歴史問題があると言っても、それに甘んじているわけにはいかない。何も疑問を覚えることなく、米国の庇護に安住するのは、感情的に受け入れがたい。

全く同様に、私は、自分の実家で、両親の経済的庇護に置かれたままで、安住していてはならない。ずっとそのままでいていいわけがない。

私は、核の傘を認めない左派ではないが、「親米保守」でもない。これは、イデオロギー的立場の表明のように、一見すると見えるかもしれないが、そうではないのだ。

客観的に日本を見ているわけではないと言いたいのだ。私は、「日本」そのものです。

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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