今から振り返ってみると、私は、学術論文で自分を表現することなど出来なかったのだと思う。自然科学だけではなく、社会科学においても、「客観性」が求められているのだから、「主観的」に書いてはいけないと指摘されたことがあった。
実は、その時は、どうして自分の文章がそのように批判されているのかが理解できなかった。自分のことについて触れている箇所はない。にもかかわらず、私の書き方や、対象の人物は、研究者たちには受け入れられなかった。ついに。
結論から言えば、私が取り上げて書いた人物には、いつも私がいた。私が作品の中に、必ずいなければならない。そのように、ずっと考えていた。まったく、疑うべく余地もなかった。疑ってもみなかった。だから、なぜ自分が受け入れられないのか、理解できずに終わったのだ。
言い換えると、私のような者からすれば、科学的な学術論文からは、「作者の顔」が見えないのだ。私からすれば、書いているのがどういう人なのかということが、きわめて重要だった。
おのれをどう描くか。ようやく書きたい文章のかたちが見えてきたということなのであれば、これまでの自分は、自己を喪失していたということになる。おのれが何者であるのかさえ、分かってなかったのだ。
「自己喪失」の自分を描く。そして、そのためには、今何をすべきなのか。
「統合失調症」の私が過去を見つめても、それは「事実」とは異なっていると言われてきた。しかし、「客観的事実」とは、果たして「真実」なのだろうか。