太宰治の語りの魅力は、『人間失格』の大庭葉蔵の手記に象徴されるように、「一人称」にある。葉蔵=作者・太宰とも受け取ることができる構図だ。
他方で、『人間失格』では、「人間」によって葉蔵は相対化されている。読み手は、葉蔵の語りだけでは、彼の考えを肯定するしかなくなってしまいかねないが、葉蔵に対する批判にも触れることができる。
人間批判と自己批判。簡潔に言えば、このように要約できるが、小説という創作では、そんな簡単に、太宰は「結論」を教えてくれていない。
彼は、何を目指していたのだろう?太宰自身の手紙や、作者の生き様を知る他ない。
私は、自分に対する批判を直接本人から聞かされたことが何度もあるが、それよりももっとしんどいのは、間接的に聞かされたときだ。誰それちゃんが、ナカニシ君のこと、こんな風に言っているよ、と。
同時に、私もよく誰それちゃんが、あなたのことこんな風に言っているよ、的な形で「仕返し」をしたことがある。大学院のゼミでよく使ったのだが、まず参加している人の文句を言う、と。もちろん、その時は、私が文句を言っているように聞こえるのだが。
ところが、最後に、こう付け加えるのだ。という風に、S君が言っていました、と。
英語で言えば、He said that ~ の構文のthat 節の中を先に伝えて、後で主語を出すという感じに近い。
よく考えると、ひどい奴だった。