「文体」についてだが、つくづく「読む」ようにしか「書く」ことができないのではないかと思った。処女作では、これまで力を入れてきた「文章読解」を強調しすぎて、力みすぎの感がある。
自分のことについて書いていることはいいにしても、「評論」という姿勢が正しかったのであろうか。あの時は、そうするしかなかった。評論家・小林秀雄の「近代」合理性批判が、「客観性」にとらわれてきた私には、他の誰よりも響いたからだ。
それは、もちろん「他者批判」であったのだが、「自己批判」を含んでいた。つまり、「外」や理論にとらわれていた自分自身を見つめ直す作業であった。
小林秀雄の評論とは、学術論文のような手法ではなかった。対象と一体化して、そこから本質が抽出されてきていた。それゆえ、『本居宣長』や『モーツアルト』など、自分ではない、歴史上の人物の本質をつかもうとするのだが、小林にとってその営みは、「自己を知る」ことに他ならなかった。
処女作を上梓してから、一年経つ。畑仕事に精を出している。「転向」文学に関する説明で、「転向」した文学者は、故郷に帰った者や、農業を営んだ者がいたそうだ。
運命や自然と出会う。死を覚悟して、一日一日過ごした。その結果なのだろうか、小林秀雄もいいが、妙に太宰治のような文章に惹かれるようになった。共感している理由は、書いた人の生き様にあるのだろうか。