最近、精神科医が統合失調症と名付けている症状があらわれてきた。治すべき症状として、病院では取り扱われてはいるが、私の場合は、よくよく考えると、違っていた。何か書くべきことがある時に、何かが私に知らせてくれているのだった。
それは、俗っぽい表現で言えば、心の声に耳を澄ますとでも言うのであろうか。そのことについて深く考えてみたいと思い立ったことが、書籍を出版することにまでつながった。むしろ、感謝すべきものだと言える。
出版に前後して、物事の感じ方がかなり変わったように思う。太宰治の『人間失格』のなかで、幸も不幸もありません、ただいっさいは過ぎてゆきます、というような表現があった。まさに、そんな感じだ。そうとしか、適切な表現は、今のところ見当たらない。
失礼なことになるのだが、本当のことなので、正直に記しておこうと思う。精神病院から退院した当初は、リハビリとして、家の仕事を手伝っていた。自分は社会の落第者なのだから、社会復帰しなければならない、と。家庭を持ち、子どもを養っている人を見習って、日々の生活を送ってゆこうと。
出版した時は、まさにそんなことを思いながら、小林秀雄を読んでいた。学問は、生活から起こってこなければならない。その生活には、合理性だけではなく、情緒がある。自然のなかで営まれる生活とは、論理ではすべてを表現することはできないのだ。
たしかに、表現すること、芸術とは何かについて、小林の論評は、戦後日本のなかではずば抜けておもしろい。しかし、生活破綻者として、太宰に共感するものがあって、それが小林の論評には欠けているような気がするのだ。困ったことに、それが、今の私には分からない。
小林(あるいは太宰)のように、書いて生計を立てることはできないから、とうぶんは衣食住に気を遣いながら、親をいたわりながら、生活していく他はない。そんな自分って、どんな奴なのだろう。
生徒が合格してほしい。成績が伸びてほしい。そう思わないことはない。それこそが、健全な社会人であろう。家庭人としては、そうありたいものだ。しかし、今の私には、いっさいが過ぎてゆく。それこそが、実感なのであって、否定しがたい現実なのだ。
しらんがな。