小さな人でも、相手の力を利用して、大きい相手を倒すことができる。
立ち飲み屋で、非正規で不安定な収入であることを批判されたが、創造性に欠ける「一人前の社会人」を批判した。それは、「柔よく剛を制す」とは、違うな。
時代の変革期においては、以前の価値観など通用しなくなる。教育激変である。文科省が、「アクティブ・ラーニング」なるものを唱道している背景には、以前はアクティブな学びではなかったということになる。
だから、生涯学び続ける姿勢が欠けているというように、文科省が以前の教育方針を自己反省していると見るべきなのだ。ただし、それは、明確に自己を批判するという形をとっていない。
だとすれば、私たち個人は、国家の責任を明確にするだけにとどまらず、自問自答せねばならなくなる。あの頃の教育とは、何だったのかと。
一方で、真面目に授業を聴いていた人からすれば、せっかく出席したのに、あの頃の“間違った”教育のせいで、「教養」を身につけることができずにいるということになる。
他方で、私のような不届き者は、先生の話なんかそもそも真面目に聴いていなかったので、行く意味なんてあったのかという虚無感(自己批判)におそわれそうになると同時に、やっぱりな、それみたことかという、変に自己肯定してみたくなることもある。
あんな教育を受けて、よくぞ一人前の社会人面できるものだ。立ち飲み屋で批判された時、そのような主旨の発言を返したように思う。時代の変化というものは、「アホらしい感じ」(太宰治)を私に与えて、外で真面目面をしている人を尻目に、外で不真面目な面をさせるのだ。