ひとりひとりの子どもの特長を見極めるというのは、創造を生み出す土台であることに、疑いはない。なぜなら、子どもと直接向き合っているからだ。小林秀雄も、心理学の創始者とされるフロイトが、患者と向き合って、1つの理論を打ち立てたことを評価していた。
だとすれば、ひとつの家族において、親や子どもがどのように成長していったのかということも、本来的には創造性を秘めていて、当然であろう。否定はしない。
会社や組織、そして国家も、その栄枯盛衰が示してくれるように、独自の「文化」というものがあるに違いない。経営者の理念や哲学なるものが、脚光を浴びて、しかるべき。
ならば、「芸術」が、世代をこえて、世界の人々に伝えられてゆくのは、そうした他の分野と同じなのか?ゴッホや太宰治にも、当然、家族がいて、時には団体に属して、その経験が血となり肉となった。
何が違うのか?「芸術」の本質とは何か?
「人間性」、人間の本質とは何か?
人間の本性は、パワーを求めての闘争なのか?そのように割り切ってしまえば、恥ずかしい行動をした自分が、慰められそうな気もしてくる。所詮、人間なんて、そういうものなのよ、と。
このような「厚顔無恥」に対してこそ、向き合う覚悟が必要なのだ。人間は自己肯定ばかりで、悪いことを悪いとも気づいていない。人間批判は、自己批判にもなりうる。
会社の規模が大きいということが、人間を評価する基準なのか。分かりやすい解説書や入門書、おもしろい動画というのが、「創作」や「表現」なのか?
私の問いや苦悩は、他者とは違う道を歩ませてくれると信じている。それは、もちろん、太宰治とも違ってくるはずだ。