野焼き

年明けに、借りている畑で、焼き芋をした。数日後に、あるおじさんが、畑で燃やしたか?と、不機嫌そうに聞いてきた。その家近辺に、灰が降り積もっていたそうだ。

燃やしたことは確かだったので、その場では、とっさに気をつけますとだけ述べた。結構怒っていたので、洗濯物ににおいがついたりして、たいへんだったんだろうと思い、その日のうちに、ホームセンターに行って、コンポストを見てきた。

コンポストというのは、落ち葉や生ゴミを堆肥に変えるための道具なのだが、すでに畑にはドラム缶があるので、それを利用することにした。結局、苦情が出てから、昨日ようやくその作業が一段落した。

結論から言えば、焼き芋程度では、そんなに煙や灰は出ないので、おかしいなと思っていたところ、近隣のため池で、野焼きが行われていた。そのことを近所の方が、たまたま教えてくださったのだが、風向きが、例の怒ったおじさんの家に向いていたようだ。

そのおじさんが、どこ出身なのかなど知る由もないし、今後いっさい話したくない限りだが、この歳になるまで、私自身が、この時期に野焼きをすることを知らなかったという事実を恥ずかしく思う。

降り積もるほどの灰が、私の畑から出てくると考えたおっさんもおっさんだが、野焼きが原因ではないかと、その場で反論することができれば、状況は違っていたのかもしれないなどと考えたりもした。

野焼きは、害虫を殺すための行事で、自治会がかかわっているため、一個人ではどうしようもない。市町村は、野焼きを禁止する動きが出ているようだが、ため池に関して言えば、その動きはなさそうだ。

ともあれ、私は、太宰治を見習って、家庭の幸福だけではエゴイズムから脱却できないため、日常生活から教養にまで高めることを目標にしている。『人間失格』のなかで、大庭葉蔵は、「人間はその場で勝てばいいのだと考えている」というようなことを言っていた気がする。

今日は、私の地区の野焼きが、ため池の中側で行われた。前回の野焼きは、ため池の西側で、隣町が担当だったそうだ。風はとくに強くなく、いまのところ、ややこしいおっさんに突撃されていない。

問題をそのまま放置することなく、それを奇貨として、自らを奮い立たせるしかない。それが出来たとき、うっとうしいおっさんにでさえ、感謝したくなるようなことになるのであろうか。小林秀雄ではないが、芸術にまで高まったとき、悲しみは消え去るであろうか。

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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