学ぶ姿勢

別に説教くさいことを言うつもりはない。ただ記憶を書き留めているだけだ。外に教えに行っている時に、相談に来た生徒がいた。正直、あまり偏差値的には、上位ではなさそうだったが、別に間違えたところを解説して、生徒評価が下がらないようにだけ気をつけようとしていた。

私は、科目の「古典」はできないが、現代文と英語、小論文などの「文章読解」は、研究生活のおかげで、なんとか最低ラインは、維持することができている(と思う)。もちろん、古典は、私の指導科目ではないから、その生徒に指導する能力も権限もない。したがって、おのれの未熟さを恥じつつ、謙虚に受験対策の指導を行っている。

ところが、思いもよらず、申し訳ないが、その不出来な生徒から、どうして古典ができないのですかと、小馬鹿にしたように(?)聞かれたのだ。本人は、素直に思ったことを聞いたのかもしれないが、少し失礼だなと感じた。私からしたら、ほっといてくれということなのだが、どうにも参った。

その時は、覚えておくべき文法が多すぎて、私にとっては、英語よりも難しい。活用形や助動詞、係り結び、枕詞、主語の特定、尊敬語・謙譲語、などなど。「教養教育」を重視する学者が、こぞって古典を重視するのは、個人的には理解できる。「日本人とは何者か」という問いは、昔の人の言葉を原文で読み取ることができなければいけない。

しかし、文法があまりにも難解であるために、内容自体に興味がある人でも、その内容が持つ教訓を、自分の経験と照らし合わせるという深いところにまで辿り着かないのだ。非常に残念なことだ。そのため、私は、古文・漢文は、現代語訳をいきなり読むしかない。比喩的に言えば、プールの授業で、泳ぐ練習をせずに、プールサイドを歩いて、ゴールに着いているようなものだ。

こうした少し真面目な話の後で、私の真骨頂の嫌みで返すことにした。まず、再テストであるにもかかわらず、点数が低かったということだ。それは、1回目の時に間違えた箇所を復習していなかったということを示している。そして、やはり講師の解説を聞く時に、その生徒はやはり、メモ書きをしていないどころか、シャーペンすら持ってきていない。要するに、なぜその正解に辿り着くのかについて、要所要所を押えていないということなのだ。

もっと言えば、志望校だけでなく、志望学部さえ、絞ることができていないので、何のために大学に行くのかさえ、あやふやな状況のようだ。考えていないわけではないのだろうが、漠然としているのだろう。ただ、大学に行っておいた方が、社会的に知名度の高い会社に入ることができると考えていたのかは、分からない。

君は、何のために学ぶのか。根本的に問い詰めてかないと、仮に良い大学に入れても、そこで学ぶことを終えてしまうのではないか。

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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