再考・『君たちはどう生きるか』(6)

「絶望」から「真実」を見い出す方法

 ここまで、丸山真男の考察を参考にしながら、次のことを検討しました。すなわち、コペル君が友達を裏切る「決定」をしてしまったけれども、友達に謝罪する手紙を自分から出すという「決定」を行ったことです。そして、この2つの「決定」は、「自分の行動を自分で決定する力を持つ」ことから生まれていました。

 要するに、友達を裏切って「絶望」に陥ったコペル君が、友情が大事だという「真実」を見い出すにあたっては、まず、「自己決定」の力を認識することが、第一歩なのでした。さらに議論を推し進めて、今回は、次のことを証明したいと思います。それは、「絶望」から「真実」をつかむ、この吉野源三郎の方法は、「性善説」を“前提”にしているということです。

 さて、コペル君は、前を向いて進もうと考えることができるようになりました。彼は、「いったい三人が機嫌を直してくれるかどうか」、「そんな事を思っちゃあいけない」と自分に言い聞かせています(吉野源三郎『君たちはどう生きるか』マガジンハウス、2017年、254-255頁)。

 「自分のした過ちについて、もう考えるだけのことは考え、後悔するだけのことは後悔し、苦しむだけのことは苦しみつくしました。もう真っ直ぐに顔をあげ、自分のこれからを正しく生きてゆこうと考えなければいけません」(同上、255頁)。

 このように、コペル君は、手紙の返事が友達から届く前に、「絶望」から立ち直ろうとしていました。こうしたコペル君の前向きな姿勢を後押しするように、彼のお母さんとおじさんが、彼らの知識や経験を踏まえて、それを伝えようとします。以下で検討するように、彼らが伝えたかったことは、「絶望」に意味を見い出すべきだということなのです。

「決断」と「後悔」の意味

 結論から言えば、コペル君のお母さんは、次のようなことを息子に伝えたかったのです。

 「そんな事〔後悔――筆者〕があっても、それは決して損にはならないのよ。その事だけを考えれば、そりゃあ取りかえしがつかないけれど、その後悔のおかげで、人間として肝心なことを、心にしみとおるようにして知れば、その経験は無駄じゃあないんです。それから後の生活が、そのおかげで、前よりもずっとしっかりした、深みのあるものになるんです。潤一さんが、それだけ人間として偉くなるんです」(同上、264頁)。

 お母さんによれば、「だから、どんなときにも、自分に絶望したりしてはいけない」のです(同上)。

 ちなみに、お母さん自身の経験とは、次のような出来事でした。それは、石段を登る「おばあさんの大儀そうな様子を見かねて、代わりに荷物をもってあげようと思いながら、おなかの中でそう思っただけで、とうとう果たさないでしまった」、という出来事でした(同上、260頁)。

 お母さんは、この出来事の意義について、次のように語っています。「あの石段の思い出がなかったら、お母さんは、自分の心の中のよいものやきれいなものを、今ほども生かしてくることができなかったでしょう。人間の一生のうちに出会う一つ一つの出来事が、みんな一回限りのもので、二度と繰りかえすことはないのだということも」(同上、263頁)。

 要するに、この出来事は、石段を登るおばあさんに声をかけて助けようとする、「自分の中のきれいな心をしっかりと生かして」ゆくべきだということを、お母さんに気づかせたのです。「だから、お母さんは、あの石段のことでは、損をしていないと思うの。後悔はしたけれど、生きてゆく上で肝心なことを一つおぼえたんですもの」(同上)。

 息子を想う母の心情を踏まえると、次の記述には我々の心を打つものがあります。すなわち、「コペル君には、お母さんのいうことが、最近の自分のはげしい後悔と結びつけて、一つ一つ、よくわかりました」(同上)。

「性善説」という“前提”

 問題の箇所は、おじさんのノートにあります。その中に、次のような記述があります。

 「人間が、元来、何が正しいかを知り、それに基づいて自分の行動を自分で決定する力を持っているのでなかったら、自分のしてしまったことについて反省し、その誤りを悔いるということは、およそ無意味なことではないか」(同上、271-272頁)。

 たしかに、一見すると、この記述は、説得力があるように思えます。「僕たちが、悔恨の思いに打たれるというのは、自分はそうではなく行動することもできたのに――、と考えるからだ。それだけの能力が自分にあったのに――、と考えるからだ。正しい理性の声に従って行動するだけの力が、もし僕たちにないのだったら、何で悔恨の苦しみなんか味わうことがあろう」(同上)。

 けれども、「自分の行動を自分で決定する力」というものが、「人間が、元来、何が正しいかを知」っていることに基づくという記述は、見逃せません。具体的に言えば、吉野によれば、人間の元来の姿というのは、次のようなものです。

 「人間が、〔中略〕不幸を感じたり、〔中略〕苦痛を覚えたりするということは、人間がもともと、憎みあったり、敵対しあったりすべきものではないからだ。また、元来、もって生まれた才能を自由にのばしてゆけなくてはウソだからだ」(同上、269頁)。

 「お互いに愛しあい、お互いに好意をつくしあって生きてゆくべきものなのに、憎みあったり、敵対しあったりしなければいられないから、人間はそのことを不幸と感じ、そのために苦しむのだ」(同上、268-269頁)。逆に言えば、「心に感じる苦しみやつらさ〔中略〕のおかげで、人間が本来どういうものであるべきかということを、しっかりと心に捕えることができる」のです(同上、268頁)。

 要するに、人間の苦しみと、「人間が本来、人間同志調和して生きてゆくべきもの」であることとは、コインの表と裏の関係にあるというのです。この議論を踏まえて、吉野は再び、丸山真男が論じていたように、モラルの問題を、「人間分子の法則」の、すなわち社会科学的認識の問題へと戻します。それは、人間を他の動物と区別せしめるものとは何か、という問題です。

 「人間だけが感じる人間らしい苦痛」とは、「自分が取りかえしのつかない過ちを犯してしまったという意識だ」。「自分の行動を振りかえってみて、損得からではなく、道義の心から、『しまった』と考えるほどつらいことは、おそらくほかにはない」。ただ、自分の過ちを認めるために苦しむことは、「天地の間で、ただ人間だけができること」なのです(以上、同上、271頁)。

 おじさんの結論は、「この苦しい思いの中から、いつも新たな自信を汲み出してゆこうではないか」、ということです。ただいずれにしても、吉野にとって、「自分の行動を自分で決定する力を持つ」ことが、「絶望」から「真実」を見い出す最大の鍵になるのですが、この議論の“前提”には、人間は元来“善き存在”であるという「性善説」が潜んでいるのです。

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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