ニーハオ

大学1年のとき、取得単位はゼロであった。たしか10月くらいから、ジャズ・バーみたいなところで、アルバイトをしていた。その業務が終わると、帰るのは決まって終電であった。

乗る電車が一緒の先輩とたまに帰っていたのだが、駅から乗車して、坐ることができなかったため、座席の間にある通路に立った。前の2人座席には、若い男性が2人座っていた。しばらくして、その1人が、声をかけてきた。驚いた。

その人物が誰なのか、乗車中は分からなかった。電車の中では、誰なのか分からない人と、いろいろ話をするという、たいへん奇妙なことになった。顚末を先に言うと、電車を降りて、階段を降りる瞬間に気づいて、電車を振り返って、その人を見て、野球のスイングをした。

1つ学年が上の、高校の野球部の先輩であった。

その先輩は、ライトを守っていたが、結局、私がセンターからコンバートされる形で、最後の夏の大会には出場した。私は、最終学年では「幽霊部員」になったけれども、その先輩は、最後の大会では、代打で出場を果たしている。

別に下手な先輩ではなかったが、寡黙な人で、あまり会話はしたことがなかったので、服装が変わって、気づくのに時間がかかった。その人の印象と言えば、かなりのプレイボーイで、私の学年のかわいい女の子と付き合っていたことぐらいだ。

噂でしかないが、キャンパスは違うが、私と同じ大学に通っていたはずだ。正直、あまりガリ勉タイプではなさそうだが、電車中に面白い質問をぶつけてきた。「なんで、大学に行っていないんだ」。私が、大学に合格したのに、親がせっかく学費を払っているのに、アルバイトをして、まったく大学に行っていなかったからだろう。

私は、あのゼミとかいう「徒党」が雰囲気的に嫌だったし、夢も経験も乏しいのに、難しい六法全書を開かされても、虚無感に襲われただけだった。とくに嫌だったのが、第二外国語の中国語の授業であった。

全員で、発音の練習をするのだ。教員が、言う。「さんはい、ニーハオ!」。俺は、小学生ではないんだ。人生の意味を知るために、大学に来たはずなのだ。なんなんだ、この大合唱は。

私からすれば、真面目に講義に出てる方が、おかしく思えたのだ。このように、その先輩に答えた。終電の、静かな車内で、迷える青年の声がこだました。

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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