再考・『君たちはどう生きるか』(5)

おじさんとの対話

 前回は、コペル君が友達を裏切ったという「決定」について検討しました。今回は、前回予告した通り、コペル君が自分から謝罪の手紙を友達に出したという「決定」について、詳しく検討します。筆者の最終目的は、後に吉野源三郎の“核心的メッセージ”を批判することにあるのですが、そのためにも、今回は前回と同じく、丸山真男の考察に基づいて、「絶望」と「真実」に関する吉野の「仮説」を確認しておきましょう。

 最初に、どうしてコペル君は、手紙を出すという「決定」に至ったのでしょうか。コペル君がその「決定」に至った重要な背景には、おじさんとの対話がありました。そのため、手紙の内容について検討する前に、おじさんとの対話について検討します(以下、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』マガジンハウス、2017年、246-250頁)。

 前回の記事の内容との関連で重要なことは、おじさんとの対話を通じて、コペル君が「覚悟」を決めたということです。コペル君は「言い訳」を考えて、自分の「弱さ」を正面から見つめていませんでした。しかし、おじさんは、こうしたコペル君の姿勢を的確に注意しました。

 まず、おじさんは、コペル君に対して、次のように尋ねました。すなわち、「何を」友達に分かってほしいのか、と。それに対してコペル君は、自分が「卑怯」であったこと、そして「弱虫」であったことを認めています。

 そのように考えが前進したにもかかわらず、コペル君は、手紙を出すことをためらっていました。というのも、友達が「機嫌を直してくれるかしら」ということを、彼が気にしていたからです。おじさんが「はげしい調子で」批判したのは、この点です。たとえば、おじさんはコペル君に対して、「そんな考え方をするのは、間違ってるぜ」と、批判しています。

 「いま君がしなければならないことは、何よりも先に、まず北見君たちに男らしくあやまることだ。済まないと思っている君の気持ちを、そのまま正直に北見君たちに伝えることだ。その結果がどうなるか、それは、いまは考えちゃあいけない」。

 おじさんに言わせると、たしかに「許しを乞う」べきなのですが、「絶交」されても仕方ないことだと受け入れた上で、手紙を出すべきなのです。コペル君は、「勇気」や「覚悟」がなかったがために一度友達を裏切ってしまっているのにもかかわらず、再び「過ちを重ね」ようとしている。そうではなくて、「いま君のすべきこと」を、「過去のこと」ではなく「現在のこと」を、そして「いま、君としてしなければならないこと」を、「勇気を出して」やるべきなのだ、と。

 要するに、おじさんはコペル君に対して、「自分の行動を自分で決定する力を持つ」ことを見つめるべきだと論じたのです。

手紙の“構造”

 おじさんとの対話が重要である理由は、コペル君をして「自己決定」の力を見つめさせた結果、何を謝罪して、何を伝えたいのかということを明確にしたからです。具体的に言えば、コペル君は、「勇気」がなかったことを率直に詫び、また、「友情」がどうでもよいと思ったわけではないことを伝えたかったのです。

 以下では、この点を証明するために、コペル君が出した手紙を引用していきます。最初に確認すべきは、自分の「弱さ」を率直に認めていることです。そのことを伝える、手紙の“構造”に注目します。

 「僕は、なぐられるならいっしょにと、指切りしたのを、忘れてしまったのではありません。

 僕は、あのことを、ちゃんと覚えていたのです。それだのに、僕は約束を守りませんでした。僕がしたことは、ほんとに、ほんとにいくじがなかったと思います」(同上、251頁)。

 次に、コペル君は、「友情」の価値を信じる己の心を、友達に分かってほしいということを強調します。そのことを伝える、手紙の“構造”に注目します。

 「僕、勇気がなくって、とうとう出てゆかないでしまったけれど、君たちのこと、どうでもいいと思ったことは、一秒だってありません。

 それは、今でも同じです。僕は、いつか、自分のこの心を、君たちにわかってもらえるようになりたいと考えています」(同上、252頁)。

 要するに、コペル君は手紙で、率直に「謝罪」した上で、彼自身が「友情」を大事だと思っていることを分かってほしいと訴えたのです。つまり、「謝罪」と「友情」が、コペル君が友達に伝えたかった点であって、手紙を出した理由なのです。

 重要なことは、手紙における「謝罪」と「友情」が、同じ“構造”から導かれている点です。実際、先ほど引用した文章を見直すと、「それだのに」と「けれど」という“逆接”の接続詞を挟んだ、「前の内容」と「後ろの内容」には、「友情」と「謝罪」のいずれが入るかというだけの違いなのです。

 つまり、友達を裏切ってしまったけれども、友達を大事に思う心に変わりがないことを分かってもらえるようにするということなのですが、いずれにしても、この「両面性」は、「自分の行動を自分で決定する力を持つ」ことから生み出されるのです。

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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