最近、太宰治に共感するところがあって、学者のことを批判的に書いている。ただ、その私自身がかつては、若手研究者の立場にあったので、彼らの文章をかなり読んで影響されていたのは、間違いない。要するに、生活経験から学問にまで高めていたのではなく、理論が先行してしまっていたのである。
拙著で書いたように、私がこの関係を見直した直接的なきっかけは、精神病院への強制入院であった。ここでの経験については、7年経ってようやく書けそうになってきた。それは、別の機会に譲るとして、今回は、病院から退院後に、投薬の副作用で、意識がもうろうとしていた時の話をしたいと思う。
私は、博士後期課程で奨学金を借りていたのだが、そのお金が底をつきそうになるまで、働こうとはしなかった。結局、まともに働く見通しをつけることができなかったため、退院後に、奨学金の返還を、分割してもらう申請を出すことにした(減額になるのではなく、返済期間を延ばすということ)。
その申請には、「所得証明書」が必要であったため、ふらふらの状態の私は、母に付き添われて、市民サービスセンターに出かけたのだ。そして、その証明書を見て驚いていたのは、私以上に、その窓口の2人の年配の男性職員だった。前年度の私の所得は、雑誌に掲載した1本の論文の原稿料だけだったのである。
彼らは、市の職員であろうから、公務員として、かなり安定したお給料をもらっていたのであろう。その表情は、何と声をかけていいのか分からず、気まずそうに、哀れむような表情であった。今でも、私は、その時の表情を思い出すことができる。
精神科医に「狂人」だと診断された男にも、お金がないことの惨めさを、身をもって感じることができたのだ。そのような感情は、むしろ感じたくはなかったが、肉体が否応なく受け取ったものであって、決して意識的なものではなかった。
太宰の『人間失格』の中では、主人公が情死未遂事件を起こしたきっかけとして、好きだった人に支払いを頼まれたのに、お金がなかった時の惨めさが挙げられていた。私は、太宰のように、華麗な女性遍歴はないため、両親に生活面で世話になった。
マルクス主義運動に熱心であった太宰は、小説の主人公と同様に、その「理論」から抜け出すことになったようだ。中期の太宰は、内縁の妻の不貞だけでなく、戦争の悲惨さや「家庭の幸福」も実際に「経験」していた。たしかに、彼は、周知の通り、「家庭の幸福は諸悪の本」だと言って、愛人とともに玉川上水に身を投げたのだが、彼は「経験」していたのだ。
私は思う。彼は戦後の風潮を嫌っていたにせよ、おのれが肉体で感じ取った「経験」から「芸術」を生み出そうとしていたのだ、と。それは、命を懸けても成し遂げねばならない、彼の「宿命」なのであった。