恥ずかしさ

教えるということには、ある種のずうずうしさがいる。私は、いつも授業が始まる前に、恥ずかしさを覚える。ある意味では、これが、謙虚さを与えてくれているのかもしれない。

まず、恥ずかしさは、人前に立つということと関連している。いわゆる「あがり症」と言われている人は、生徒から注目を浴びていると、どうしても普段の実力を発揮しにくくなる。その対処のために、「プレゼンテーション能力」を高める方法と題した本が、書店に所狭しと並べられている。

次に、自分の基礎知識は、生徒に伝えられるほど、十分にあるだろうかと問わなければならない。この点を意識して、私は、高等教育において、ただ暗記だけではなく、文章を読解する能力や、「思考の枠組み」に関する理解についても、試験で問うようにしていた。

ちなみに、「思考の枠組み」とは、簡潔に言えば、「問題を捉える視角」とでも言うべきものだ。この視角次第で、従来の発想が転換する可能性があるため、「創造性」の観点からは非常に重要なのだ。

最後に、おのれの経験を省みた時に、よくもまあ、教壇に立っているなという声が聞えてくる。よくよく考えてみると、集団授業の進み具合など、個人に合うとは必ずしも言えず、自分が授業を受ける側だった時は、ろくに先生の話など聞いていなかった。

ひどいことには、大学1回生だった時、私は、あまりにも講義が面白くなく、1年間の取得単位がゼロであった。そんな奴が、非常勤講師で短い間だったとはいえ、そのような過去の記憶を封印しながら、大学の講義をこなしていたのだ。

別に自慢でも何でもないのだが、若かった頃に私は、塾や予備校に通ったことがなかったので、働き始めてから、教育業界のシステムを学んでいった。私が変わっているのかもしれないが、人に教えてもらいたいと思ったことがなかったのだ。ただ、生徒と対話しながら、自分の理解を深めて、また、お給料ももらえるのは、案外悪くないのかもしれない。

慣れてくると、初心を忘れてしまいがちだが、急に、何の前触れもなく、あの声が聞えてくる。「あんな奴だったのに、よくそんな偉そうなことしてるよな」、と。

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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