「現場」について

私は、教えることで生計を立てているが、教えるといっても、いろいろな「形態」がある。一方で、家庭教師、塾、予備校、専門学校、そして大学などは、それぞれの特長を、魅力あるものとして宣伝し、生徒を集めている。他方で、生徒や保護者は、自分たちの目的や個性を見極めた上で、それらが、教育機関の特長と合致しているかどうかについて、慎重に検討することになる。

私は、教育業界に精通しているわけではないし、するつもりもないから、思ったことを書くだけである。教育における「現場」とは、もちろん、受付や教務の方々が行っている、入会説明や生徒対応も入るであろう。しかし、基本的には、授業において生徒が「何を学んだのか」ということが、生徒や保護者が一番重視するところだと思う。

その意味で、教育における「現場」として、真っ先に思い浮かぶのは、教師と生徒が出会う場所である。私は、さまざまな授業形態を経験してきたが、思い返してみると、個人的にあまり好きでなかったのは、大学の大教室で、ほとんど一人で話すだけで終わるというものであった。少し息抜きで、笑いをとろうとして、たいして反応がなかった時などは、ほとんど地獄である。

ただ、やはり大学で教える内容というのは、自分が研究で調べてきたことが大半であるため、それまで研究してきたことが役に立っているという実感があった。また、各生徒の習熟度や関心に注意を払いながらではあったが、講義内容が“学術的”に魅力あるものにするように集中することができた。悪い言い方をすれば、生徒よりも私自身の興味関心を中心に据えることができた。

反対に、家庭教師は、一対一で面と向き合う形態で、個人的にはもっとも好きな形であった。昔、といっても私が若かった頃だが、家庭教師と言えば、授業料が割高で、偏差値が高い子どもが授業を受けているというイメージがあった。今日では、子どもたちの間で「発達障害」が増えているようで、学校に行けなくても学習内容に遅れをとらないようにするという狙いが、保護者の側にはあるようだった。

ただ、家庭教師の場合は、ある意味では、家庭の中に入り込むような状況になるため、生徒の立場(学校の様子・家庭環境・健康状態)を思いやって、親身になりすぎる傾向があった。要するに、学習指導に集中することが、なかなか難しいのである。正直に言うと、家庭教師の会社も、保護者も、入試関連の対策などは、講師に任せきりなので、講師に負担が大きいのではないだろうか。

実は、上記の2つの授業形態については、いずれもすでに勤務していないので、メリットのデメリットの両方を述べさせてもらうことにした。現在の勤務先も含めて、総合的に言えることは、「現場」で教えるだけでは、全体像が見えづらく、やりがいを見出せないということだ。言い換えると、学校の先生たちが訴えているように、組織の末端で、悪い労働条件や環境で働かされているような感覚に陥るのだ。

当然、真面目な生徒もいるが、接し方が難しい生徒がいるのも事実だからだ。大きな組織が、崇高な理念を掲げて、社会に貢献していると誇らしげに語っているのを聞いて、胸くそが悪くなったのも事実だ。そのように感じるのは、私の性格の悪さが原因なのであろうか。働く場所を提供してもらっているだけでも感謝するべきなのだろうか。

そのような自問自答から、実家のそろばん教室に主体的に関与するようになった。指導だけでなく、保護者対応や集客、そしてテナント管理にも動くようになった。たとえ小さくて利益が少なかろうが、また、大学ほど指導内容に魅力を感じなかろうが、私には、これまでにはない視界が開けてきたのだ。

私の本分は、書くことであるため、正直、それ以外のことはしたくはない。しかし、残念ながら、書くことだけで暮していけるほどの人物ではなかった。要するに、生活していくために教えているのだが、この視界を開いたという「生活経験」を、今後「文章表現」につなげていきたいと思っている。

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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