「なぜ文章を書いているの」と、よく知り合いから聞かれる。一直線にここまで来たわけではなく、途中で立ち止まっていたことも多いから、自信満々では答えられない。回り道をしても、なぜだか分からないが、いつも書くことに戻ってきた。
ただ、書かずにはおられなかったのだ。山に登る理由は「そこに山があるからだ」と、有名な登山家が言ったのに近いのかもしれない。何か表現したいと思うのは、内に秘めたものが内にとどまることができなかったからだ。
私の場合は「恥」をかいた出来事がきっかけになったが、いろいろ調べてみたら、私だけでなく、有名な作家さんで似たようなことを書いている人がいた。たとえば、人生でかいた「恥」で眼が覚めてしまうとか、悲しみで眠ることができない、といったことであった。
そのため、次のことは、強調してしすぎることはないと思う。それは、ひとりひとりが、独自の生活経験に基づいて、その人にしか成し得ない表現をする可能性を秘めている、ということだ。
ただ、「生活することで事足りる」と考えている人は、書くこととは無縁なのではないかと思う。はじめに断っておくと、私は、生活を甘く見て痛い目にあった経験から、母から、衣食住足りてこそ、好きなこともできるのだ、と叱咤された。母のみならず、子どもを産み育てるために、夢を犠牲にした人が大勢いることくらいは、私も知っている。
生活から動かない人が多いこともたしかなのだ。キャンプにバーベキュー、掃除・洗濯・料理、レジャーなど、私と同年代の働き盛りは、家族や仲間とともに、娯楽にひたっている姿を見かける。けれども、私は、そういうものにあまり気乗りせず、たまに美術館に出かけるくらいだ。
近年は、そういった娯楽に関する出版本が、数多く書店に並んでいる。スポーツであれ、料理であれ、車やバイクであれ、その道に詳しくなることは、人生を豊かにしてくれるに違いない。娯楽の専門家は、その知識を正しく使うことができれば、人に喜んでもらうことだって、きっとできるはずだ。
私が問うてみたいのは、何を表現するのかということである。私は、どうしても、「文学」「芸術」でなければいけない気がしている。拙著などは、先に述べた娯楽ほど、人の役に立つようなものではない。正直に言えば、評判や知名度やお金が、まったく欲しくないわけではないから、自分にはないものを見ると、ちとうらやましくなる時もある。
とはいえ、私には、後世にまでのこるものを書きたいという気持ちの方が強い。一度読んで、すぐに捨て去られてしまうようなものにはしたくない。誰か読者の一人でもいい、文章を読んで、「普遍性」「永遠」を求める著者の思いを感じ取ってくれたならば。
そうした覚悟は、傲慢だと批判されるかもしれない。しかし、それがあるからこそ、おのれの「経験」と、先達たちが積み上げてきた「知識」を結び付けることによって、生活経験を思想にまで高められるのだと思う。