「書き方」について

今回のシリーズは、私とそろばんの経験について、思ったことを本音で書きたいと思います。実は、後述するように、「書き方」について、新たな取り組みを始めています。その取り組みを進める上で、「私とそろばん」というテーマがよいと考えています。

今年はじめての著書を出版したのですが、幸か不幸か、ほとんど知られていません。私は、母のそろばん教室を手伝っていますが、習いに来てくれている生徒と保護者さんの中で、私の書籍について知っている人は、ほぼ皆無と言っていい状況です。

ただ、ありがたいことに、拙著を手にとってくれた方もいらっしゃいます。そうした一部の方々や家族から寄せられた率直な感想は、引用文が多いという苦情でした。この点は、実は、出版社側からも、主にマイナス面として指摘されていた点で、私も今後の課題として、素直に受け止めたいと思っています。

言い訳をするとすれば、「何が創造を生むのか」については、すでに多くの研究が出されていたこと、また、西洋と東洋の発想の違いや「近代」批判といった、思想面の説明が必要であったことが挙げられます。もしかすると、有名な学者たちの言葉を借りて、書籍としての形を整えようとしたのかもしれません。

現在の出版業界では、拙著のような、少し堅苦しい表現の書籍は、売れ行きがいいとは決して言えないようです。それでも、ご批判を承知の上で言わせてもらえば、近年大量に市場に出回っている本は、文章理解ができない人向けの、ご丁寧な解説本が多く、また内容面を見ても、読むべき価値のある本は、限られてきているように思います。

私が、あれほどまでに出典を明確にすることにこだわったのには、理由があったのです。その理由とは、これまで考えてきた論者に敬意を払い、その上で、自分のオリジナルを打ち出すことでした。批判の対象として俎上にあげるにしても、論者の主張とその根拠をきちんと理解する必要があると、私自身の経験が私にそうさせたのです。

もちろん、前述したように、ご批判はアドバイスとして受け入れていますが、読む人が読めば、後から検証できるわけですから、ひどい読解でないことは分かってもらえるはずです。

さて、教育に携わっていると、教えるという立場もあって、どうしても説教くさくなって、自分自身が嫌になる時があります。精神病院に強制入院させられたような奴が、教えることなんてどきるのかという声が聞えてくるなんて、しょっちゅうです。また、以前の記事「あほらしい感じ」で述べましたが、そもそも教えるなんて、したくないのです。

とはいえ、そんな「狂人」が本を出すことができたのは、自問自答するという能力が、まだ残っていたからです。人に教えるとは?そろばんの意義とは?真に学ぶとは?そして、生きるとは?このような問いに潜む本質的な問題を掘り起こすことを目的として、できるだけ出典に頼ることなく、身近な経験を見つめながら、自分の言葉で語っていきたいと思います。

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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