ずっと「書評」を書き続けてきましたが、今回は、これまで以上に「感想文」を書きます。根拠とか、しっかりしたものはなく、タイトルの通り、思った通りのことを、そのまま書きます。書かせてください。
今年1月末に、拙著が刊行されました。私の記憶の限りですが、芥川龍之介や太宰治は、手紙や随筆などで、一人でも自分たちの小説を読んでくれたら、それでよいのだと書いていました。私は出版することによって、彼らの気持ちを少し分かった気がします。
ただ、文豪と呼ばれる彼らでさえ、生活することには苦労していたようです。書くことだけで、十分生きていくことができるだけのお金を手にすることは、容易ではなかったのでしょう。ましてや、私とは異なって、家族を養うべき立場に置かれた方々は、自分が本当にしたいことを捨てざるをえなかったのかもしれません。
以上のような、生活経験に根差した、人間に普遍的な悩みは、次の問いにまとめることができます。つまり、ただ生きて衣食住が事足りているだけで十分なのか、あるいは、それ以上の意味が人生にはあるのか、という問いです。
私は、実家暮らしで、結婚もしておらず、子どももおりません。さらに、奨学金を借りて、大学院で研究をしていました。拙著で書いた通り、私自身が「狂人」になった理由として、名誉・お金・承認という、自分の「外」のものにとらわれすぎていたように思えます。その時、私は心の中で、後から振り返ってみると、自分にも他者と同じような「幸福」を手にする機会があったのに、どうして別の道に進まなかったのだろうか、と後悔したりしました。
ドクター問題は社会問題として取り上げられていましたが、実際博士課程にまで行くと、年齢も重ねていることもあって、新卒採用はなかなか難しい印象がありました。ただ、私なりに、「発狂」しながらも、実家の仕事の手伝いをして、一種の起業家気取りをしたり、また、自分なりに己の経験を振り返って、教育関連の業界が一番自分に合っているなという感覚もつかめています。
そして、何より、まだ生きています。それは、たしかに、親兄弟のみならず、仕事の関係者のおかげであると、私は感謝せねばならなりません。私が生きていくためには、(拙著をご購入いただいた方以外の)顧客の方々に、私の提供するサービスが、お金を払うだけの価値があると認識(誤認?)させる必要があります。
大学を出ても働きたくなかった私が、いわゆる「子ども部屋おじさん」でありながらも、かろうじて自分の価値を認めさせることができている。そうだとすれば、拙い書籍を出すことなく、現在の教育関係の仕事を続けているだけで、もしかすると、ただ生きているだけではないじゃないか、立派に生きる意味を見出しているじゃないか、と励ましてくれる優しい方もいるかもしれません。
ただ、どうしても、書籍を出す以外の仕事に、「あほらしい感じ」を覚えてしまうのです。与えられた問題を解くことくらい、自分よりも偏差値の高い教育関係者が、自分の内面を深く見つめることなく、効率的な方法で解いているじゃないか。説明の仕方が丁寧かどうかが問題だと?なんで、たいして悩みが深くもない、面白くもねぇ文章の理解力や説明力を競わねばならんのだ?
自殺未遂を繰り返した、青年・太宰治は、たしか30歳頃に、本気で書く仕事に取り組むと決意したようだ。ある評論家が書いていたように記憶しているが、その時になってようやく、「書くことが生きることになった」のだ。言い換えると、書かなくては、死んでいるようなものだ。ただの「感想文」で恐縮なのですが、最近処女作を出した私は、38歳になってようやく、この太宰の境地に達したような気がしています。