五木寛之『あなたの人生を誰かと比べなくていい』

 今回は、五木寛之『あなたの人生を誰かと比べなくていい』(PHP研究所、2017年)を取り上げます。私(中西)の問題関心に沿って、五木の考えを整理してみたいと思います。

 まず、五木が、タイトルの通り「他人と比べる必要はない」と主張するとき、現代に生きる私たちが「他者からの承認」にとらわれすぎているという認識が前提にあります。具体的に言えば、お金や容姿、それに子どもなど、自分にはないものを他人が持っていると、それらを羨み、自分も持つことで他者から認められたいと考えがちです。

 このような、他者との比較から生まれる「悲しみ」については、次のように対処することが可能です。すなわち、「ひとりで在る」ことについて覚悟を決めるのです。自分は世界で1つだけの存在であって、「生きているだけで価値がある」のだ、と考えましょう。

 問題は、もっと不条理な「悲しみ」に対して、どのような心構えで臨むかということです。人間は必ず「死」を迎えるため、「敗北」が決定づけられています。大切な人を亡くしたとき、もう二度と直接会うことはできません。このような場合について、五木は、次のような、大きな「物語」を考えることを提案しています。

 それは、人間は亡くなると、あの世に行くのですが、再びこの世に戻ってくるという、生命の循環です。これは、五木が言うように、東洋の仏教的な考え方です。人間は、自然の中で生かされているのです。このように考えると、今を生きていることを味わうことができ、そのため、自分や他者の命の貴重さを理解することもできるのです。

 五木が以上のように考える背景には、自殺者の増加や凄惨な殺人事件が起こっているという時代背景があります。五木が憂いているように、現代人は、科学や論理を重視しすぎて、嘆き悲しむという「情」を喪失しかけています。戦後の「エゴイズム」に浸ったことは、命までも軽んじてしまうほど、「共感」の力をなくさせてしまったのではないか。

 たしかに、五木の議論は、戦後日本の問題について、戦争経験も踏まえた、本質的なものです。彼の提言は、私たちに思い込みを捨てて、発想を転換させる必要に気づかせてくれます。たとえば、愛は報われないこともあるのだと認識せよ、とか、生活をないがしろにして自由を求めることは危険だ、など、なるほどと思わせるものでした。

 しかし、それでは、何よりも命を最優先させるならば、ただ生きているだけではダメで、未来のまだ見ぬ何かに命を懸けるというのは、もはや「狂気の沙汰」なのでしょうか。たとえば、「表現者」として抱えた「悲しみ」が、あまりにも大きいために、西洋的な「罪の意識」に耐えきれずに、命を投げ出してしまうことは、非難されるべきなのでしょうか。

 作家である五木は、弱き悩める読者に対して、やさしく語りかけています。この濁りきった社会においても、変化に対する柔軟性を持ちながら、生きてゆかなければならないのだ、と。勝手な推察になりますが、五木が社会を変革するというより、読者個人の心のありように訴えかけているのに対して、前述したような「革命家」は、時代の大きな転換期において、己の命が小さく見えてしまうほど、壮大な理想を有していた者なのかもしれません。

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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