今回は、千葉一幹「人間失格と人間宣言―太宰治と天皇」(『文學界』文藝春秋、2022年7月号)を取り上げます。管見の限り、千葉の論考の核心とは、戦後の太宰作品が、彼の「罪の意識」に従って、暗に天皇を批判していたというものです。
戦後当初、太宰は「パンドラの匣」で、今こそ「天皇万歳」を叫ぶのだと宣言しました。彼の手紙においては、「天皇を倫理の儀表に据える」という言葉が確認できるのですが、天皇への言及は次第に消えていきました。千葉は、その重大なきっかけとして、天皇の「人間宣言」を指摘しています。
「人間」天皇は、もはや「現人神」ではなく、夫や親として、「家庭の幸福」を国民にアピールするようになりました。しかし、千葉によれば、太宰は、戦争で生き残ったことに対して「罪の意識」を有していたため、戦後に生活や生存を謳歌することは、戦争で亡くなった者に対する侮辱だと考えたのです。
また、太宰は「散華」の中で、アッツ島で玉砕した知り合いが送ってきた手紙を、たたえています。その手紙には、この戦争のために自らは死ぬけれども、主人公に対して「文学のために」死んでくださいと書かれていました。だとすれば、太宰の文学は、兵士を戦場に向かわせた「天皇陛下万歳」というかけ声に対して、当然ながら批判的にならざるをえないのです。
千葉は、「ヴィヨンの妻」の中で妻が、「人非人でもいいじゃない、生きていればいいのよ」と述べていることを指摘しています。たしかに、敗戦後、女性や天皇も「人非人」ではなく、「人間」となりましたが、太宰は、「人非人」にさえなれなかった、「過去」の戦死者に思いをはせた結果、遂に「今」を生きることができませんでした。
千葉によれば、この「人非人」の意識、あるいは「罪の意識」こそが、『人間失格』の「第一の手紙」における「虚無感」としてあらわれたのです。いずれにしても、以上の千葉の仮説は、現実の政治情勢や証拠を踏まえながらなされたもので、傾聴に値するものです。
ただ、太宰が実際に、以上のような“天皇批判”を内に秘めており、それが彼の文学の本質であったとすれば、彼の「文学」は政治的な意味合いを強く帯びてしまうことになります。そのため、「政治と文学」という文脈から、彼の文学作品(とくに『人間失格』)において、“フィクション”がいかなる役割を果たしえたのかについて、改めて考えてみるべきなのではないでしょうか。