村瀬学『「人間失格」の発見』

 今回は、村瀬学『「人間失格」の発見―倫理と論理のはざまから』(大和書房、1988年)を取り上げます。同書の意義は、なによりも、『人間失格』を丁寧に読解しようとした点にあります。その理由は、三谷憲正と同様に、作品理解と主人公(作者)の軌跡を安易に混同しないようにするためです。

 そして、この読解を踏まえて同書は、「倫理と論理のはざま」という視角を設定しています。

 まず、同書において、「倫理」と「論理」とは何なのでしょうか。私の解釈になりますが、「倫理」とは、具体的に言えば、主人公の葉蔵が人間社会から排除されること、また反対に、葉蔵が人間を批判することです。次に、「論理」とは、「人間とは何か」を突き詰めて考えるということです。

 それでは、この2つの「はざま」とは、何を意味しているのでしょうか。村瀬によれば、太宰の試みとは、次のようなものでした。すなわち、「社会からのはみ出し者」を描いて、社会そのものの成立基盤である「人間観」を問うたのだ、と。私なりに説明すると、自分は「人間失格」だが、だからこそ、倫理的に「人間」を非難することができるのだという“逆説”です。

 通常、人間社会から排除された者は、人間を批判することができません。村瀬の指摘によれば、「人間である」という前提で相互に批判し合うというのが、太宰以前の主流の構図でした。だとすれば、「倫理と論理のはざま」というのは、太宰がこの主流の構図を崩そうとした試みを表現したものだと言うことができるのです。

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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