奥野とキーンの対談(2)

 今回は、前回に続いて、奥野とキーンの対談を取り上げます。その論点は、①作者と作品の関係と、②太宰治と三島由紀夫についてです。

 まず、キーンによれば、太宰の作品は、彼の実生活と関連づけて論じられてきました。しかし、表現の仕方や構成など、別の観点から、太宰作品は再評価されるべきなのです。つまり、キーンは、作品と作者を切り離して考えるように提言しているのです。

 次に、太宰と三島に関してですが、両者はともに自死を選びました。ただ、一般的には、三島が太宰を嫌っていたことは有名で、両者の相違点が強調されがちです。三島が太宰を嫌った理由は、太宰が作品の中で「弱さ」を見せている点にありました。三島によれば、太宰の弱さというものは、身体を鍛えることで解決可能なのです。

 ただ、奥野やキーンによれば、三島の『仮面の生活』は、太宰の『人間失格』と非常によく似ているそうです。また、三島はその晩年において、自身が太宰と似ていると発言していたとも言われています。それにもかかわらず、三島が“太宰嫌い”という役に扮していたのは、なぜなのでしょうか。

 一方で太宰は、「本当の顔」(自画像)を絶対に見せないように、「面」をつけて「道化」を演じていました。たとえば、とくに中期において、生活を営むことができる「小市民」を装っていました。他方で三島は、惚れた「面」自体を自分の顔にしようとしたのです。そのため、三島が最期の写真で見せていたのは、「擬装」だったと言えるのです。

 このように奥野とキーンは、太宰とその作品を、三島という作家の人生との比較の中で語っています。また、奥野が指摘するように、『人間失格』は、太宰の「脳病院」への強制入院という経験なしには、語り得ません。したがって、皮肉なことに、キーンの提言とは真逆で、やはり作品は、その作家の人生とは切り離すことはできないということになるのです。

 このサイトでは、小説や文芸評論を取り上げながら、どうすれば「絶望」から「真実」をつかむことができるのかについて検討していきます。なお、『先導者たち』というブロマガサイトでも、筆者自身の闘病体験を踏まえて、文筆活動を行っています。

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