自らの「真実」をつかむために
前回は、丸山真男の論考を読み解くことによって、「絶望」から「真実」をつかむためには、自分の「弱さ」だけでなく、「自分の行動を自分で決定する力」をも「内省」する必要があるということを論じました。丸山の考察における「構図」の核心は、「主体性」という課題にあるのですが、丸山はこの課題を、「自分の行動を自分で決定する力」として強調しているのです。
今回は、以上の点を検証するために、小説の「ハイライト」の精読を行って、コペル君の「決定」とその動機を検討します。
改めて、『君たちはどう生きるか』の「ハイライト」を、簡単におさらいしておきます。コペル君は、殴られる時は一緒だと、友達と指切りまでして約束したにもかかわらず、実際に友達が殴られている時に、約束を破って傍観してしまいます。
その後、コペル君は後悔に苛まれますが、おじさんの助言を得て、友達に「許しを乞う」手紙を出します。結果的に、コペル君は友達と「友情」を再確認して、その重要性を再認識することができました。
さて、丸山の考察を参考にするならば、最大の焦点は、「自分の行動を自分で決定する力」です。この点を同書の「ハイライト」に照らすならば、次の2点が重要になります。第1に、友達が殴られている時に、傍観するという決定をしたことです。第2に、自分から友達に謝罪の手紙を出すという決定を下したことです。
重要なことは、この2点を取り上げる目的が、冒頭で言及した、吉野源三郎の「仮説」を実証することにあるという点です。具体的に言えば、この2点は、前回検討した「精神の弁証法」(両面性)と一致しています。実際、コペル君においては、一方で傍観をしてしまったけれども、他方で自分から動き、立ち直ることもできたという「両面性」が認められ、また、その「両面性」を生じさせているのが、「自分の行動を自分で決定する力を持つ」ことなのでした。
友達を裏切るという「決定」
それでは、以下では、小説を参照しながら、前述した2つの「決定」について検討していきましょう。第2点については、次回の記事にて論ずることとして、今回は第1点について論じます。
最初に検討するのは、どうしてコペル君は友達を裏切ってしまったのかという問題です。結論から言えば、コペル君は、3人の友達が上級生たちに言いがかりをつけられた時に、友達のところに駆け寄ろうと思ったのですが、あまりの恐ろしさに出て行くことができませんでした(吉野源三郎『君たちはどう生きるか』マガジンハウス、2017年、221-222頁)。
少し厳しい表現になりますが、コペル君自身が内面で気づいていたように、彼は「弱虫」で、「臆病」で、「卑怯者」だったということになります。上級生に立ち向かった3人は、そのような自分を軽蔑しているだろうと、コペル君は思い悩むのですが、いずれにしても、そうした事態に陥った原因は、友達を裏切ったという「決定」に求められるのです。
この“事件”の後で、コペル君は「後悔」から寝込んでしまいます。彼がどのくらい落ち込んだかと言えば、死んでしまいたいくらいに、です。コペル君をこうした気持ちにさせたのは、友達の3人から「見捨てられてしまった」という思い込みでした(同上、233-234頁)。
コペル君の脳裏に焼き付いていたのは、自分が傍観していただけであったのに対して、自分以外の3人の友達が「ちゃんと約束を守って、〔中略〕運命を共にした」姿です。「何よりも、あの三人の仲の良さ」は、コペル君をして、「その仲間にはいる資格のない自分を、〔中略〕みじめに」感じさせたのでした(同上、225-234頁)。
要するに、「人間の行いというものが、一度してしまったら二度と取り消せないものだ」という意味において、友達を裏切ったという「決定」は決定的な重要性を有しているのです(同上、240頁)。ところが、寝込んでいる時のコペル君は、その「決定」から目を背けて、「言い訳」を考えてばかりいました。たとえば、友達が殴られた時、自分は現場にいなかったと「ゴマ化す」ことにしようか、という具合です(同上、237-240頁)。
このように「言い訳」を考えていた原因は、コペル君が、問題の根源にある自分の「弱さ」を正面から見つめていなかったからです。本当は、恐ろしさに膝が震えて、友達に駆け寄ることができなかったのに、その事実を認めようとしていません。コペル君は、そうした自分に嫌気が差していました(同上、239-240頁)。
次回検討するように、コペル君が自分の「弱さ」を認めて友達に謝罪したいと考え始めるのは、 “事件”のあらましについておじさんに、ようやく自分から話すことができるようになってからのことでした(同上、242頁)。