今回と次回は、太宰治について考える上で、奥野健男とキーンの対談を取り上げます(「対談 奥野健男×ドナルド・キーン 擬装の対極――太宰治と三島由紀夫」『文藝別冊 KAWADE ムック 永遠の太宰治』河出書房新社、2019年)。その論点として、今回は、①太宰文学の「普遍性」と、②太宰とキリスト教について考えます。
まず、キーンによれば、太宰文学は、西洋とは異なる日本の伝統的な美が強調された、「日本文学」としてではなく、「近代文学」としての価値が高いそうです。具体的に言えば、人間とは何かについて書かれたものであるため、世界中の人々が時代を超えて共感することができるそうです。
なお、奥野が指摘するように、そのような良い点は、「話体」によって強調されたと言えます。すなわち、太宰の作品は、読者に対して「語りかける」ので、読者は自分だけが太宰の理解者だと考えるようになるそうです。
以上の太宰文学の「普遍性」と関連して、太宰とキリスト教の関連について考えておきましょう。キーンによれば、太宰がキリスト教について触れたのは、日本思想に対して幻滅を感じたからかもしれません。それは、西洋人がキリスト教に飽きて、禅のような東洋的な宗教に関心を抱くのと、同じものであったそうです。
それでは、太宰文学が「近代文学」としての意義を有するのであれば、その中で“日本的なもの”はどのように捉えられていたのでしょうか。国や時代を超えて太宰文学に共感しうるのは、太宰が、他者との関係を通じて、自己とは何者かを問い詰めたからでしょう。だとすれば、太宰はこのテーマに取り組むにあたって、どのように“日本的なもの”の可能性を追求したのでしょうか。